家綱編
慶安四年(承前)
05/06 後水尾上皇が仏門に入る。(「柳生十兵衛死す」の中では法皇とか呼ばれてもう出家姿だったけど、むしろ計画が破綻して観念したと見る方が自然か)(新暦1651/06/23)
伊達巳之助丸(後の綱宗)、叔父兵部に連れられて吉原へ通う。(忍者仁木弾正)
07/22 原田甲斐、宗意軒の陰謀から主君伊達巳之助丸を救う。(忍者仁木弾正)
07/23 松平伊豆守信綱の許に訴える者あり。同夜半、丸橋忠弥などを逮捕。(定本 武江年表)
07/25 夜半に駿府茶屋の梅屋方に宿泊中の正雪一味を包囲、翌早暁に自害す。(定本 武江年表)
一刀斎、金井善兵衛宅で奮戦。その後、善兵衛は従兄弟の半兵衛らと捕らわれるが、一刀斎は女と供に行方不明。(死なない剣豪)
08/18 徳川家綱が第4代の征夷大将軍に任ぜられる。(新暦1651/10/02)
11/29 由井の党類、誅伐せらる。(定本 武江年表)
12/10 大老・老中、浪人問題を議す。翌十一日、大名旗本の末期養子の金を緩め、五十歳以下の場合には認めることとす。(定本 武江年表)
慶安五年/承応元年 壬辰
06/27 若衆歌舞伎御禁制の御触。(定本 武江年表)
09/18 「承應」に改元する。
承応二年 癸巳 六月閏
01/02 牛込御門の内、青山某が婢女菊と言うもの、主家にて秘蔵の皿を破りて害せられその霊魂祟りをなせし事、人口に膾炙すれどもその実否を知らず。(定本 武江年表)
06/20 一刀斎小金が原にて死す。九十四才。(死なない剣豪)
玉川の上水を都下に通して、衆庶の用に充てしめ給う。(定本 武江年表)
承応三年 甲午
町奴御穿鑿あり。(定本 武江年表)
承応四年/明暦元年 乙未
04/13 「明暦」と改元する。
11/20 宇喜多秀家、配罪先の八丈島にて卒。(定本 武江年表)
明暦二年 丙申 四月閏
10/09 吉原町を被召上、代地として日本堤の辺(千束の内、田地なり)にて下さる旨命じらる。(定本 武江年表)
明暦三年 丁酉
01/18 明暦の大火。所謂振袖火事。
会津候・保科正之の娘松姫の加賀輿入れの前夜、正之の正室お万の方、これを毒殺しようとして誤って実の娘春姫(米沢上杉候夫人)を殺める。事態に驚愕した正之、関係者を成敗し、お万の方を幽閉する。(変化城)
明暦四/万治元年 戊戌 十二月閏
07/23 「萬治」に改元する。
九月 明の軍師国姓爺鄭成功、本邦へ援兵を請う。(定本 武江年表)
万治二年 己亥
朱舜水先生、明末の乱を避けて日本へ来る。(定本 武江年表)
01/05 吉原三浦屋の名妓高尾死。(定本 武江年表)
万治三年 庚子
万治四/寛文元年 辛丑 八月閏
01/19 夜、光物南より北へ飛ぶ。その光物、半町程も行く間、一天昼の如し。(定本 武江年表)
勧進相撲、今年より毎年続けて興行す。(定本 武江年表)
04/25 「寛文」に改元する。
寛文二年 壬寅
寛文三年 癸卯
五月 天下に令して殉死を止給う。(定本 武江年表)
寛文四年 甲辰 五月閏
03/27 旗本水野十郎左衛門成之、切腹を命ぜらる。(定本 武江年表)
閏05/07 上杉綱勝が苦悶の末死亡する。27歳(誕生:寛永14(1638))。息子に後を継がせんとする吉良上野介に毒を盛られたらしい。公儀は会津候保科正之の三男正統を養嫡子に勧めるが、春姫の事件を慮った正之が固辞したため、吉良家より三之助が養子入り。綱憲と名乗る。(変化城)
寛文五年 乙巳
三月 藤堂高次、伊豆で新しい妾・おらん殿を得て帰国。(伊賀の散歩者)
十月 御先手頭中山勘解由、初めての「盗賊改め」となる。(南無殺生三万人)
寛文六年 丙午
02/06 秀忠の長女千姫没。七十歳。(定本 武江年表)
03/26 人形のごとき光物、東方に飛ぶ。(定本 武江年表)
三月 おらん殿懐妊。(伊賀の散歩者)
松尾甚七郎(後の俳聖・芭蕉)、伊賀を出て江戸へ向かう。(伊賀の散歩者)
三月 酒井雅楽頭、大老になる。(南無殺生三万人)
夏 藤堂高次の三男・図書高堅、倉の長持の中で死体となって発見される。(伊賀の散歩者)
秋 藤堂高次の四男学助基精、球体の鏡の中で発狂。(伊賀の散歩者)
晩秋 藤堂高次の次男佐渡守高通、殺害される。下手人として捕らえられた高通の妾お貞が処刑寸前に攫われる。(伊賀の散歩者)
寛文七年 丁未 二月閏
春 高次世嗣和泉守高久、帰国しておらんの生んだ小さい弟を見る。高久、歩左衛門の屋敷を訪問し、男色に嵌る。(伊賀の散歩者)
夏 中山勘解由、白柄組の残党が暴れる神田の湯女風呂へ単騎で突入。犯人を切り捨てる。人質の中の武士十人も醜態を晒したとして処刑する。(南無殺生三万人)
寛文八年 戊申
三月 町人帯刀する事を禁ぜらる。(定本 武江年表)
寛文九年 己酉 十月閏
七月 蝦夷人乱をなす。十月までに松前侯より平げらる。(定本 武江年表)
寛文十年 庚戌
勘解由、職務に行き詰まりを感じ始めるが、弁護の余地のない二人の凶漢を「己のために」すっぱり斬り捨てて迷いを吹っ切る。(南無殺生三万人)
寛文十一年 辛亥
03/27 (伊達騒動)原田甲斐、大老酒井雅楽頭の屋敷で対決中の伊達安芸を斬殺し自身も幕府の役人の手に掛かる。(人間臨終図鑑)
寛文十二年 壬子 六月閏
寛文十三/永保元年 癸丑
09/21 「延寶」に改元する。
永保二年 甲寅
松尾忠左衛門、薙髪して風羅坊、深川に庵(芭蕉庵)を結びて住す。(定本 武江年表)
永保三年 乙卯 四月閏
永保四年 丙辰
近江源三郎、乙見保之丞夫妻を切支丹信仰の咎で検挙。(売色使徒行伝)
永保五年 丁巳 十二月閏
春 乙見保之丞死亡。(売色使徒行伝)
非人に落とされていた保之丞の娘お鳥、切支丹牢へ移される。(売色使徒行伝)
永保六年 戊午
春 源三郎、お鳥を襲った惨劇を漆間春蔵に語る。(売色使徒行伝)
06/15 東福門院和子卒。(定本 武江年表)
八月末 切支丹の男七人と下女お鳥、切支丹牢を脱走。近江源三郎これを率いて失踪。(売色使徒行伝)
秋 漆間春蔵、株を上司の次男に売って浪人する。(売色使徒行伝)
永保七年 己未
秋 大老・酒井雅楽頭、越後騒動に際して小栗美作一派に肩入れした裁可を下す。(忍法双頭の鷲)
九月 酒井大老の娘婿安乗志摩守、病気を理由に帰府を延期する。(忍法鞘飛脚)
源三郎、女陰陽師水野貢の家の地下に潜伏。春蔵、岡場所を開く。(売色使徒行伝)
本多出雲守、明石にて六万石を領する。(忍法双頭の鷲)
永保八年 庚申 八月閏
一月末 安乗志摩守夫人、夫の病気見舞いのため国元へ下る。(忍法鞘飛脚)
四月半ば 夫人の処置により志摩守の病状が回復する。(忍法鞘飛脚)
05/06 館林藩主徳川綱吉が将軍家綱の嗣子となり、綱吉の子徳松が館林藩を継ぐ。(新暦1680/06/02)
05/08 四代家綱死去。(新暦1680/06/04)酒井大老、後継者決定の席で失態を演じる。(読淫術)堀田越前守、水戸光圀と共闘して綱吉を将軍職に就け、大老酒井雅楽頭の権力を失墜させる。(忍法鞘飛脚・忍法双頭の鷲)