魔法世界史

§3 世界史への助走

 中世は崩壊した古代を受けて近世の再統一へと至る過渡期と見なされる。それ故一般には暗黒時代とさ見なされる時期だが、大帝国の押さえが無い分自由で活力あふれる時期でもあった。RPGの舞台としては巨大権力がないこの時期の方が利用しやすい。古代社会だと魔法が強力すぎるという話もある。

 主要参考文献の一つ「東洋的近世」(宮崎市定/礪波護編)に乗っている最簡略化世界史年表(東洋、西アジア、ヨーロッパの歴史を、古代、中世、近世、最近世でおおざっぱな曲線で区切っただけのもの)から読みとると、その基点は大陸中央=西アジアではペルシア帝国の滅亡以後、東方=東洋では後漢王朝末期から三国時代、西方=ヨーロッパでは西ローマ帝国の崩壊になる。逆にその終焉はイスラーム帝国、宋王朝、百年戦争の終結辺りと思われる。

3−1 新興宗教の台頭

 古代文明圏の統一はその辺境に様々な矛盾と反発を生む。その一つが古い秩序体系に抵抗する新興宗教である。新興宗教は古い地縁血縁的な共同体を否定する所から生まれるが、古い秩序体系を破壊するまでには至らない。土俗性を削ぎ落としたある種の普遍性を有するが故に、発生地で認知される事は希で伝播してその地方の土俗と習合して大流行する事がある。言い換えれば風土病から伝染病へ変化したと言える。(宗教を疫病と対比させる意見は梅棹忠夫著・比較宗教論への方法論的おぼえがき「文明の生態史観」より)

 伝染性宗教の好例としてインド起源の仏教とオリエント起源のキリスト教がある。いずれも発生地では既に廃れ、伝播して信仰される。発生源ではこれら新興宗教のエッセンスも取り込んで新しい宗教が誕生している。インドではバラモン教に対するアンチテーゼであった仏教を経て今のヒンドゥー教が生まれ、オリエントではユダヤ教に対する宗教改革であるキリスト教の後を受けてイスラームが発生している。また仏教やキリスト教も誕生当時そのままでなく、伝播地の土俗と習合して土着を果たしている。多種多様な日本仏教はある意味では完成系と言えるし、ローマカトリックはゲルマン土俗との習合により東方教会から分離して発展した。

3−2 古代帝国滅亡の要因と古代文明の継承

 新興宗教の台頭は古代文明の崩壊以後だが、その存在が直接的にも間接的にも古代文明の崩壊の要因となる訳ではない。三つの文明圏を代表する古代帝国を崩壊させたのはいずれも周辺異民族の流入である。では何故この様な民族移動が起こったか。それは気候変動によるものと説明されている。では何故気候変動が起こったか。その点に対する説明はない。一番わかりやすいのが地軸移動による寒暖が繰り返す気候変動の波である。

 しかし、魔法世界ではこの気候変動の要因は簡単に説明出来る。つまり農耕魔法文明による機構改変が周辺地域への反動となって乾燥・寒冷化を発生させ、その結果異民族の文明圏への流入を引き起こすのである。ペルシア帝国を滅ぼしたのはギリシア人、秦漢帝国にとどめを刺したのは軍閥が引き込んだ騎馬民族、ローマ帝国はゲルマン民族の大移動に飲み込まれた。いずれも北方からの侵入である。遊牧民族は農耕民族よりも乾いた地域に発生するがそれがユーラシア大陸においては北部に位置するからである。

 一度はアレキサンダーの帝国に組み込まれたエジプトであったが、彼の帝国の本国のギリシアと共に相前後して新興の古代ローマ帝国に組み込まれた。以後、イスラームによる征服まで西アジア世界から切り離され、地中海世界の一部としての中世を過ごす。

 中央文明圏はその辺境であったエジプト、ギリシアを切り離され、インドも取り込み損ねたが、残りの地域は比較的纏まって推移した。その周辺から新たにアラブ人のイスラームを発生させるのである。また東方文明圏は南北朝時代を経て侵入異民族による王朝・隋唐による統一に至る。そして西方はローマ帝国の東西分割により地中海世界から切り離され、初めて独自性を確立しようとしていた。こうして生まれたのが新王国である。

3−3 中世封建制

 封建制=地方分権と郡県制=中央集権とは相反する統治システムであり交互に出現する。その意味では封建制というのはうち倒すべき悪でも何でもなく、単に階層分化・現状維持・反中央の思想に過ぎない。権力は集中すると腐敗するので、集権が進みすぎると、必然的に分権指向が生まれてくる。それが中国史で幾度と無く現れる離合集散のサイクルである。

 さて古代封建制と異なる中世封建制の成り立ちについて検証してみよう。古代帝国は周辺異民族の流入により衰退期を迎える。しかしこれが即座に帝国の崩壊へと繋がる訳ではない。初期の移動移民団は帝国の妥協の元、入植地を獲得する。中央の統制を受け付けないこれらの新王国は形式上は古代封建制に近いが成立過程が新しい。古代における封建とは征服者が被征服者による地方領主権を認めると言うものであったのに対して、中世では自力で勢力圏を獲得した地方領主が中央政府にその領主権を認めさせるという力関係の逆転現象が見られる。古代帝国の崩壊過程に置いて軍事力の維持を目的として屯田制がしかれる。これはある意味では古代帝国の中央集権を捨てて(維持出来ずに)封建制へ逆戻りする前兆であった。

 古代封建制の代表格である周代の封建制では、諸侯は出仕・貢献の義務の他、祖霊を祭る宗廟(血統的統制の維持)と集落守護神を祭る社稷(受封の象徴)を祭る事を義務づけられる。これは宗廟=血縁・社稷=地縁と言う結びつきを維持する方策であった。社稷とは魔法世界では農耕魔法文明の根幹である。

それに対し、中世封建制は領土権の承認と引き替えの軍事力供与契約というきわめてドライな関係である。契約であるから、状況次第では破棄も可能と言う事になる。だがこれは本来は中央集権的なシステムを必要としない天水農耕社会でのみ実現可能である。

 中世期にはいると軍事的な中央統制の及ばない私有地、一般に荘園と呼ばれる物が各地に発生する。中央政府はこれを武力で解体するだけの力を有しないので、現状を追認し政府保有の荘園を作ってこれに対応する。これが唐の均田制でありヨーロッパの農奴制である。農奴=均田農民は耕作による租税のみでなく、徭役と言う形で徴兵も受ける。そこから屯田制の変形・完成型である事がわかる。

3−4 近世的国家の発生と市場経済

 元来が北方民族の出身であった唐の帝室は遊牧民国家の可汗を兼ねるという歴史的な大統合を達成したが、残念な事にこの体制は半世紀しか継続しなかった。広大な国土を有機的に支配する制度がまだ未完成であったからである。

 唐の後期はこのシステムの完成に費やされた。武力の保持よりも財源確保を優先し、武力すら必要ならば金銭で購うと言う形態を取っている。朝貢により異民族の侵入を押さえるという方策は前漢以来の傾向であるが、これは唐を経て宋の時代に完成を見る。宮崎市定氏は著作「大唐帝国」で後期の唐朝を財政国家と呼んでいる。近世社会の代表であるイスラーム世界はまさにこの財政国家であるし、現代日本はまさにこの表現に当てはまる。近世社会へと移行するための最大の要因は貨幣制度の発展とそこから生まれる市場経済システムであった。

 中世の試行錯誤の末に発生した近世的社会では、古代帝国との相違点として、1)文明が国家から分離し自立している。2)情報(思想・知識・趣味を含む)と物材の交流のネットワークに支えられる。3)人々の心を細くする新しい思想が存在する。と言う新しい特徴を見せる。此処で言う新思想とは、七世紀西アジアにおけるイスラーム、十世紀シナの宋学、そして十一世紀ヨーロッパのローマカトリック(ゲルマン的キリスト教)を指す。

 中世と近世を分ける要因の一つがこの市場経済の有無である。市場経済システムの考察は別稿に譲るが、このシステムの誕生が最後にして最大の大陸国家を生む前提条件であった。古代帝国の統治システムにはその規模に限界があったが、市場経済システムはその限界を打ち壊す事になる。

 次稿・§4 大陸国家と海洋国家

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