忍法帖別解

解の壱 二人の明智光秀 04/07/10 追補

 史実に置いても謎の多い人物ですが、風太郎年代記においても一番問題の多いのがこの明智光秀の前半生です。

 美濃国明智庄土岐下野守が斉藤道三によって滅ぼされた(忍者明智十兵衛)のが恐らく弘治元年のこと。落ち延びた一子十兵衛はまず蜂須賀村に現れました。そこで後の秀吉と遭遇し、彼との長きに渡る因縁が生じます(妖説太閤記)。

 その後、甲賀卍谷で忍法”人蟹”を会得した明智十兵衛は越前朝倉家に仕官を果たします。其処であったのが彼と成り代わるもう一人の光秀、土岐弥平次でした。

 十兵衛光秀が栗原山に竹中半兵衛を訪ね、秀吉と再会したのが永禄七年。弥平次が十兵衛とすり替わったのも丁度この年でした。さてこれはどちらが先でしょうか。結論から言えば、栗原山で秀吉と会ったのは弥平次であったと思われます。蜂須賀村での秀吉の罠については本物から聞いて知っていたのでしょうが、実際に一杯食わされたのは自分ではないので、秀吉に対する直接的な怒りは湧いてこなかったでしょう。しかしその為に秀吉の危険性を理解出来ず後に更に大きな罠(つまり本能寺)に掛かってしまった訳です。

 十兵衛と弥平次の容貌についてですが、実際にはそれほど大きく違っていなかったのだと思います。蜂須賀村に現れた時点で十兵衛は三十才。朝倉家に入った時には既に四十に成っていた本物に対し、弥平次は三十そこそこ。つまり両者の違いは単に年齢の違いでしか無かったのです。沙羅姫は本物を随分と毛嫌いしていますが、それは始めに腕が生え替わるというショッキングなシーンを見たために第一印象が悪かったのでしょう。

 蛇足ながら、土岐弥平次の出身が丹波となっているのは光秀が丹波を領した事に対する伏線でしょう。

関連稿 時代小説人物評伝 明智光秀

解の弐 謙信、女陰往生に死す

 果心居士が、信長の敵を始末するために用いた「忍法女陰往生」。これは対象を女性の胎内へ引き込み、生まれてからの一生を追体験させるという物である。通常の人間はそれに耐えられず狂死するとされる。

 果心は信玄、義昭、謙信の三名をこれで葬り去った(義昭は「信玄ほどの罪業を積んで居らぬ凡物」のため死に至らなかったが)。最後に信長を本能寺から逃がすためにこれを用いるが結果は…。と言うのが「忍法死のうは一定」の根幹ですが、ここで問題にしたいのは三人目の謙信である。つまり、果心は不犯の謙信を如何にして女陰往生に掛けたのか?

 その答え(と思われるの)が、「くノ一紅騎兵」に現れた「背孕みの法」である。これは男色の相手をしつつ、子種を授かると言う特殊な技術なのです。

 さらに突っ込んだ解釈に成ります。この時謙信を胎内に入れたのは、謙信の寵童でもあったとされる樋口与六、すなわち後の直江兼続その人では無かったか。さらなる問題はこれにより謙信が死ぬと言うことを兼続が知っていたかと言う点です。

 知らずに果心に利用された可能性も勿論有りますが、むしろ彼は確信犯的に協力したと考えます。目的は彼が附けられていた景勝を上杉家の後継者にすること。天正六年の謙信の軍事目標は西の信長相手ではなく恐らく関東の北条で、養子の景虎を関東管領の後継者として押し立てるための物であったと考えられるからです。関東出身の景虎を関東管領に、越後生まれの景勝を越後守護にというのは常識的な線ですが、これだとやはり景虎の方が格が上になります。

 また御館の乱に置ける彼の手際の良さは、謙信の死を予期していたとしか思えません。兼続が秀吉の信長抹殺計画(妖説太閤記)に荷担したのもその策士振りを伺わせます。

関連稿 時代小説人物評伝 上杉謙信直江兼続

解の参 由比正雪と森宗意軒 (改題・追補)

 「くノ一忍法帖」でお由比の方が生んだ秀頼の遺児が正雪だとすると、年齢に矛盾が生じてしまうので困っていたのだが、この時の赤子は結局成長しなかったとするのが良いかも知れない。ただ、同時期に生まれた長宗我部盛親の遺児・丸橋忠弥まで否定するのは惜しい。「柳生十兵衛死す」でも忠弥は盛親の遺児らしいと書かれているし。

 問題は二人の赤子を託された千姫が何処へやったかと言う点にある。家康の死後、千姫と頼宣は相談の上、駿府城下の商家に二人を預けたが、姫の再嫁・頼宣の紀州移封と前後して秀頼の落胤の方は亡くなってしまい、残った忠弥の方は忘れられてしまう。で後の正雪はその商家の実の息子であった。

 「姦の忍法帖」にて、正雪と甲賀者の縁が示される。この直後、宗意軒と再会して、転生衆を任されるのでしばらくは必要なかっただろうが、彼らが十兵衛に倒されるに及んで、改めて甲賀との繋ぎを求めたであろう。(02/02/22附記・07/03/10修正)

解の参・追補 正雪と宗意軒、ついでに武蔵 (07/03/10追補)

 正雪十六歳の時に江戸で出逢う。島原の乱に旅立つ直前、彦左衛門に忍法を使って戦中派の真相を暴き旗本達の志気を挫いた、筈だったのだが実際に合戦が始まると若者達は意気揚々と戦場へ向かってゆく。

 この時点で正雪は師を見限ったのだろう。師の骨を拾ってやるかぐらいの気持ちで島原の乱の後に現れた彼は武蔵に弟子入り志願する。ところが、師は生きていた。そればかりか恐るべき魔界転生の秘術を見せる。(宗意軒がいつどのようにして荒木又衛門を堕したのかは定かでないが)裏事情を知らない武蔵は変わり身の早い奴と思っただろうが、これは単に旧来の師弟関係が復活させたに過ぎない。

 宗意軒は転生させた武蔵に裏切られたが、無事(?)転生に成功したのであろう。正雪の元へ舞い戻っている。そして慶安事件の失敗を予期して、正雪に替わる新たな叛骨の人間を集め始める。

関連稿 時代小説人物評伝 由比正雪森宗意軒

解の肆 関ヶ原・忍びの攻防

 関ヶ原の帰趨を分けた小早川秀秋の去就を巡って忍び組の攻防が繰り広げられた。

 「刑部忍法陣」においては大谷刑部の娘婿真田家より使わされた猿飛佐助は信濃忍法「人肌外面」によって刑部に化けてその健在を誇示しその叛意を挫いたかに見えた。しかし、「忍者撫子甚五郎」ではそれとは別に石田家の波ノ平党と徳川家の服部党の間で共同謀議が巡らされた。即ち、双方二名ずつの代表が共同で秀秋の去就を探り、その四名が揃って勝つ方へ走ると言うモノであった。

 記述からも、整合性からも佐助の行動が先で、その後に刑部に化けた波ノ平党弥勒甚五郎の潜入が行われたと考えて良い。

 一度目の刑部(=佐助)は征韓の折りの恩義を持ち出し、恫喝により西軍への帰順を誓約させた。一方、二度目の刑部(=弥勒陣五郎)は恩賞によってその歓心を勝ち取った。波ノ平党の二人は服部党の二人を殺し、交合転生によってその体を乗っ取って徳川陣へ入り秀秋が裏切ると虚報を流す。

 だが都合一日に二度も大谷刑部の来陣を受けた秀秋は混乱を来したのだろう。結果的に彼は東軍へ走り天下は徳川の元へ帰することになる。となれば、西軍の敗因は三成と刑部の連携ミスと言うことになるのかも知れない。

関連稿 時代小説人物評伝 大谷刑部

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