失われた史実

 金田一世界には長編への改稿や中断作品の復活等によって生じた様々な事実の変更がある。

 此処では作品の時系列化作業の思い出と共にそれらについて語っていきたい。

1 緑ヶ丘への移転時期

 金田一の研究本として最も手軽な「名探偵・金田一耕助99の謎」(大多和伴彦著)では32年と成っているが、この情報は実は古い。緑ヶ丘荘への移転時期は長編改稿とそれに伴う作中時間の遡上によって繰り上がっているのだ。

 世田谷区緑ヶ丘町で起こった二つの事件(「毒の矢」とそれに続く「黒い翼」、角川版では一冊に纏められている)が移転の移り住む契機となった。と初期の「悪魔の降誕祭」に書かれていた。しかし現行版ではこの部分は削られている。

 「毒の矢」事件は原型版では明瞭ではないが、改稿長編版で三十一年の事件であると確定する。しかし、その後の改稿作品のいくつかでで作中年代の繰り上げが行われたためこの移転に関わるエピソードは失われている。

 緑ヶ丘に住んでいる事が確認出来る時系列上の最初の事件は「壺中美人」で、これは二十九年の事である。これは改稿繰り上げの結果であって、実はこの時期は「幽霊男」事件と重なってしまう。年表を見て貰えば分かるが、この移転前後の二十八年と二十九年はいくつかの事件が錯綜していて非常に忙しい。

 さてこの一連の改編により金田一の移転の理由が不明瞭になってしまった訳だが、その後に書かれた「病院坂の首縊りの家」にて緑ヶ丘荘が親友風間俊六の持ち物であると言う事実が明らかになり、この疑問は解消された。

2 名琅荘の時差 (11/08/20部分改稿 11/06/26増補)

 「迷路荘の惨劇」は珍しく作中年代が明記されている。元々予告だけで未着だった作品で、三十一年にようやく「迷路荘の怪人」として発表されたモノが、二度の改稿を経て実に五十年に至ってようやく今の形になった。

 こうした作中年代と発表年代の”時差”の所為で、この事件簿には重大な記述の矛盾が存在する。つまり時系列的に後の事件になる「女王蜂」事件にまつわる紹介文が存在するのである。名琅荘は静岡県にあるのだが、金田一は同じ静岡県警内で起こった月琴島の事件(「女王蜂」)を解決した事でその名を知られている事になっているのだ。他にも発表年代の逆転による記述の矛盾としては「支那扇の女」における多聞修の紹介があるが、「迷路荘」のそれは有る意味致命的である。(多門については別稿を参照のこと)

 しかしながら、この「女王蜂」の事件が無くても金田一の名が知られていておかしくはない。現に篠崎もかの有名なと紹介しているくらいだから。逆に、「女王蜂」の時に(時系列的に早い)こちらの事件が取り上げられない事には問題が無い。金田一は確かに優れた手腕を発揮しているが、事件の真相をすべて明らかにしていない。犯人を故意に隠したという点では「女王蜂」事件も同様であり、静岡県警がこの事実を知ったらさぞや気を悪くする事だろう。

 中篇版「迷路荘の怪人」を読むと名琅荘の時差はこの段階で発生していることが分かる。復刻版の「〜怪人」の解説によれば予定された題名は「まぼろし館」であったが、別に「落葉殺人事件」と言う予告題名もあった。これは旧華族の没落がテーマとして考えられており、これは翌26年の「悪魔が来りて笛を吹く」に生かされている。

 長編版には「悪魔が〜」と似通った密室(トリックは異なる)が組み込まれており、作者の執念が垣間見える。長編版には「悪魔が〜」の事件を回想する金田一の心理描写もある。「悪魔が〜」は執筆が26年であるが事件発生は22年なので時系列的矛盾は無い。 

3 幻の金田一探偵事務所 (11/08/18新稿・13/09/16修正)

 「女怪」によれば、金田一は獄門島から東京へ戻った後に銀座裏の怪しげなビルの最上階に探偵事務所を開いている。この東京入りの車中で旧友風間俊六と再会しており、このビルも風間の紹介と思われるのだが、「黒猫亭事件」ではそのくだりは煩雑になるゆえか書かれていない。(正しくはこれが書かれた時点ではこの探偵事務所は「存在していなかった」のだろう)

 「黒蘭姫」が年代的にこの探偵事務所時代の事件であることは確かだが、この作中では三角ビルと明記されている。そして同じく三角ビルでの事件として「死仮面」があるのだが、こうなると三ヶ月で閉めたという「女怪」の記述と合わなくなる。さらに年代的に両事件の間に挟まる「悪魔が来たりて笛を吹く」では探偵事務所には全く触れられず松月の離れで依頼人と応対している。 

 これを執筆順から推定すると、「黒猫亭事件」(22年)では依頼人でもある風間との関係だけに着目して探偵事務所は想定されず、「黒蘭姫」で初めて探偵事務所が設定された。「死仮面」でもその設定が踏襲されたのだけど、この作品は長く幻の存在であったために年代の刷り合せがなされていなかった。(作者存命中に刊行された角川版は解説者山村氏による補足、その後欠落部分が発見されて春陽文庫から”完全版”として刊行された)そして「女怪」でこの探偵事務所は三ヶ月限定と書かれてしまった。

 もし「死仮面」が早い時期(「女怪」の発表以前に)に単行本化されていれば、この三角ビルの探偵事務所での事件ももっと書かれたかも知れない。そうなっていれば緑ヶ丘荘への引越しも無かったのかもしれない。あるいは「女怪」の発表以後に「死仮面」の完全稿が見つかっていれば、三角ビルに関する記述は書き換えられていただろう。

 蛇足:「八つ墓村」の怪

 「死仮面」は作中で八つ墓村に言及しているのだが、実はこの時点で「八つ墓村」は連載中で完結していない。恐ろしいことに連載そのものも一時中断し、完結は26年にずれ込んでいる。同じく八つ墓村に触れている「女怪」すら25年の発表なのだ。「八つ墓村」が未完で終わっていたら大変でしたね。

4 35年の壁(13/09/16「消された事件」と「時空のねじれ」を合併改稿)

 緑ヶ丘荘への移転時期の繰上げは金田一の活躍時期を35年より前に押し込もうとした結果である。これを35年の壁と名付ける。

 改稿に伴う年代繰上げによって作品間の関係性が断ち切られた例が「渦の中の女」と「扉の中の女」で有る。どちらも原型は佐七モノであり、前者は中編「黒い蝶」(未読)を経て長編「白と黒」になり、後者は「扉の影の女」となった。

 両短編は依頼人が知り合いで、「渦の中〜」の依頼人が「扉の中〜」の依頼人に金田一を紹介した事になっていた。のだが、改稿後の「白と黒」が発表年代に併せて設定されているのに対し、「扉の影の女」が年代を遡って設定されているので、両者の時系列が逆転している。為に両作品の繋がりは断ち切られ、紹介者に関わる事件は結果として「書かれざる事件」となった。

 出版芸術社刊行の自選集「仮面舞踏会」の解説にて「スペードの女王」「壺中美人」「扉の影の女」の三作品が改稿時に作品年代を遡らせていることが書かれている。しかしこの結果、既述の緑ヶ丘荘問題を超える致命的な時空のねじれが生じている。

 緑ヶ丘署の島田警部補は「毒の矢」事件が金田一との初対面の筈なのだが、それよりも以前の「スペードの女王」事件に登場する。しかもご丁寧に『「毒の矢」や「黒い翼」の事件以来昵懇の』と書いてある。この部分は原型版には存在しないだけにサービス過剰が災いしたと言うところだろう。

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