国際問題考察

§0 ウィーン体制の再考 スイスからギリシアへ

0−1 スイス 仏独国境

 地図を見ると、スイス(と思われるあたり)の形状がおかしい。更に言えばフランス帝国のそれも手元にあるウィーン体制下のヨーロッパと少し異なる。

 結論から言えば、スイスはフランス語圏に属する西部(ジュネーブを含む)がフランス領となり、逆にアルザス=ロートリンゲン地方はドイツ連邦に組み込まれたと思われる。

 さて、ウィーン体制に遡って検証を加えると、様々な問題が解決する。以前取り上げたポーランドであるが、ウィーン体制下で独立させた方が後々無理が生じない。ナポレオンの庶子アレクサンドル・ヴァフレスキについては共和制立憲制移行後の初代大統領とする。

 当然プロイセンが領土を削られる事になるが、これについてはウォータールーの戦いに手を加えることで解決する。この戦いをドイツ連邦の成立より前に持ってくるために、エルバ等脱出を一ヶ月早め、またプロイセン軍がこの戦いで損害を受けて発言力を弱めたことにする。ナポレオンの敗北そのものは変わらないが、ドイツ問題に関してイギリス・ウェリントンの発言力がその分大きくなる。

 プロイセンについてはポーランドで妥協させた分をザクセン王国領で補填する。時のザクセン王フリードリヒ・アウグストはワルシャワ大公を兼ねており、そのままポーランド王へ横滑りさせる。また、ロシアについてはポーランドを手に入れ損ねる分をバルカン・モルダビア地方の併合で穴埋めする。

 さてスイスであるが、永世中立は認められずドイツ連邦の一部として位置づけられたモノとする。その後、ローマを追われた法王庁がスイス・ルツェルンに遷座する。

0−2 ギリシア独立戦争

 地図を見る限り、ギリシアは独立を果たしてない。まさかバイロンが行かなかったから独立できなかった訳ではあるまいが。ギリシア独立を目指す秘密結社ヘタイライは活動しているので、独立戦争は諸外国の介入を招くほどに盛り上がらなかったのであろう。

 此処で注目されるのがヨアニス・カポディストリアスと言う人物である。彼はギリシア独立後の初代大統領に迎えられた人物であるが、それ以前にロシアの非公式大使としてスイスに赴き、その安定化を永世中立化を成し遂げ、ロシアの外務大臣となっている。

 と言う訳で、この人物を消すことでスイス問題から連鎖的にギリシア独立消滅が派生する。

0−3 ドイツ連邦の構成

 ブリテン政府は外務省の方針としてドイツ諸邦を可能な限り分断しておきたいらしい。

 まず連邦議会で四票を有する主要国について。

 連邦の盟主であるオーストリア帝国は宰相にしてウィーン体制の立て役者の一人であったメッテルニヒが皇位継承を巡る宮廷党争に敗れてロンドンに亡命する。ブリテン政府としては強大化するプロイセン王国を牽制するための梃子入れであったらしいが、その後のイタリア統一戦争でヴェネツィア・ロンバルディアを失って弱体化する。

 ウォータールーの失態で東部の本貫地を失ったプロイセン王国であるが、ドイツ関税同盟の結成によりオーストリアを排除した小ドイツ構想を推し進める。37年にはヴィクトリア女王の即位によりブリテンとの連合王国から離れたハノーファー王国(やはり四票をもつ主要国)が翌年に関税同盟に加入することでこの動きは加速する。

 ナポレオン戦争を巧く立ち回り最も利益を得たバイエルン王国であったが、その後は暗愚な王が続き、ブリテン外務省が期待したようなドイツの”バランサー”としての機能を果たしていない。史実では48年の革命の年にはルートヴィヒ1世が女優(高級娼婦)とのスキャンダルから退位させられているのだが…。

 史実では主要国であったザクセン王国は、先に見た様にプロイセンに吸収されヴェッティン家(アルブレヒト系)は変わりに連邦外のポーランドを得る。新たに海港を得た新生ポーランド王国はドイツ関税同盟には参加せず、ブリテンとの交易を選択する。

 残るはヴュルテンベルク王国であるが、ライン同盟の中でも最もナポレオンよりと見られ娘はヴェストファーレン王ジェロームの王妃であった。よって西側を大幅に削減して投票権も二票とする。

 その西隣、ライン川周辺にやや大きな領域があるのだが、適当な領主が思い当たらない。ヴュルテンベルクの隣のバーデン大公国もナポレオンの姻戚(皇后ジョゼフィーヌの姪を娶る)であったが、世継ぎがおらず断絶後の分割が密かに話し合われていたという。と言う訳でヴュルテンベルクの西半分とバーデン、プファルツ宮中伯(バイエルン王家の分家)、それにアルザス=ロートリンゲンと解体されたスイスの北部をまとめて投票権三票をもつ”ライン連邦”としてまとめてしまう。

 以下、ヘッセン大公国とバイエルン(ヴァイマル)大公国が二票、四つの自由都市(リューベック、フランクフルト・アム・マイン、ブレーメン、ハンブルク)とその他の小国が一票とする。

 なお、史実では三票を与えられているシュレースヴィヒおよびホルシュタイン公国(デンマーク王国に属する)とルクセンブルク大公国(オランダ王国に属する)は連邦不参加とする。

§1 連合王国 バイロン首相の外交政策

1−1 英仏協商とアジアの分割(06/12/01加筆修正)

 英仏協商によるアジア植民地政策は史実より加速傾向にある。アヘン戦争は有ったか無かったか不明だが、当面は無かったモノとして話を進める。アヘン戦争の代わりとして日本への遠征を挿入する。(作中に英国による開国を伺わせる記述があり、日本では既に徳川幕府が倒れている)日本に関しては取りあえず年表を参照下さい。

 英領インド(インド帝国に非ず)はビルマを含み、マレー半島とボルネオ島北部も英領マラヤ州と成っている。また、インドシナも既に仏領となっている。

1−2 イタリア統一戦争

 地図を見る限り半島内部に国境線は見えない。イタリアという文字が半島の上に書かれているので国境線が欠けなかった可能性もあるが、一応統一が果たされていると考えて考察を進める。史実でもイタリア統一運動はかなり早くから動き出しているのだが、諸外国との力の均衡もあって、なかなか機が熟さなかった。しかし、この世界では、炭焼党(カルボナリ)に属した事もあるバイロンが大英帝国の首相として存在し、且つ史実より早く登場した第二帝政フランスがイタリアの独立に前向きであることから、情勢は一気に加速する。

 問題はイタリアとだけ書かれていて王国か共和国かが不明である点だが、英仏協商の後押しを考慮するとイギリスモデルの立憲君主制が妥当ではないか。

 なお、イタリア統一の障害となるローマ法王については、かのマキャベリの言葉に従って、スイスへ追われたモノとする。

1−3 カルリスタ戦争とカタロニア共和国(06/11/15改訂追補)

 フェルナンド7世は一人娘イサベラに王位を継がせるため弟カルロスの継承権を奪いポルトガルへ追放した。しかし、王の死後即位したイサベラ2世はまだ三歳であり、カルロスは直ちに即位を宣言する。これを受けて北部の農村部とカタルーニャ地方ではカルロス支持派(カルリスタ)が蜂起する。これがカルリスタ戦争である。

 作中に見られる英国政府の性格から、自由主義のイサベラ女王派より復古主義のカルロス派に荷担した公算が大である。その結果としてスペインは保守主義と伝統主義に留まる。一方、カタルーニャ地方は自治独立を勝ち取り、カタロニア共和国が誕生する。英国はジブラルタルに隣接するアンダルシア地方の割譲を受け、スペインは地中海から完全に切り離される事となった。

1−4 オレゴン国境紛争と英墨戦争(11/12/31新稿)

 史実の米墨戦争に代わるもの。米墨戦争はテキサス併合問題に端を発するが、こちらはオレゴン国境紛争に絡む。

 オレゴン・カントリーは現在のカナダ・ブリティッシュコロンビアの一部から合衆国ワシントン州・オレゴン州・アイダホ州およびモンタナ州とワイオミング州の一部に渡る。この地域は英米仏西露五カ国の係争地であったが、仏・西・露が順に脱落し最終的に英米の対決となった。

 合衆国のオレゴン併合論はテキサス併合を除く南部の拡張論者によって主張された。これはテキサスが奴隷制支持なのに対し、オレゴンを自由州としてバランスを取る意味があった。逆にいえば、テキサス併合が消えればオレゴン地域を合衆国に取り込む意味も無い。

 オレゴントレイルによって押し寄せた合衆国移民はアダムズ=オニス条約による49度線を越えて殖民を始め、やがてスペインとの軋轢を発生させる。ブリテン政府はスペインとの直接対決を避け、ここに移民たちによる傀儡国家を建設した。これが英墨戦争を経てカリフォルニア共和国となる。

§2 南北戦争と合州国の大分裂

2−1 テキサスとカリフォルニア(06/11/22改訂・追補 09/05/11追補 11/12/31再追補)

 よくよく検討してみると、米国によるテキサス共和国の併合が無い方が展開として自然である。そう考えて読み直すとテキサスが米国領となったと思われる記述はない。テキサスはフランスの支援でメキシコと戦争を行いニューメキシコ地方を得る。フランス(当然、ナポレオン3世による第二帝政である。後述)は支援の代償としてメキシコ全土を手に入れる。

 テキサスの合州国加盟案は独立の当初からあった。但し、時のヴァン・ビューレン大統領はメキシコとの戦争を恐れて参加を拒否。テキサスも併合案を引っ込めて独立国としての歩み始める。テキサス併合案が再び俎上に登るのは「偶然内閣」ジョン・タイラーの時代。彼はホイッグ党のハリソン大統領の急死により副大統領から昇格したのだから、ハリソンが死ななければ大統領には成れなかっただろう。ハリソン大統領を存命させ、タイラーの党除名を副大統領からの解任に変更する。

 一方、テキサス共和国内部の問題であるが、ヒューストンの政敵で第二代の大統領だったミラボー・ボナパルテ・ラマーは合州国への併合に反対していたらしいので、ヒューストンの追放後のテキサス・フンタの指導者は彼だろう。

 一方のカリフォルニア共和国であるが、史実に於ける成立は(メキシコの)対米戦争の間隙を付いた少人数の短期的なモノであった。しかし、作中の設定ではテキサス併合が無く、それに続く米墨戦争も無い訳である。代わりに英仏協商の後押しを受けたテキサスとメキシコの戦争が挿入される。

 その領域は現在のカリフォルニア州よりやや北にずれていて、現在のロサンゼルス(州の最大人口密集地である)の辺りはフランス領メキシコ、代わりにオレゴンの西半分が含まれている。東の国境線はおそらくおそらくシエラネヴァダ山脈で、北の国境線は現在のオレゴンとワシントンの州境でもあるコロンビア川と思われる。ワシントン州の内コロンビア川の北側はイギリス領北アメリカに含まれる。

 独立の時点では思いも寄らなかっただろうが、その後のゴールドラッシュにより人口は急激に増加する。

2−2 異聞・南北戦争

 55年の時点でアメリカ合州国(史実との差別化から作中の北部連邦をこう表記する)は分裂している。それも北部連邦と南部連合に加えてテキサスとカリフォルニアの二つの共和国が別個に存在するというまさに大分裂である。よって此処へ到る経緯は始めに結果ありき、となる。

 70年時点での記述で、「ヴァラディンガムは南部連合と及び腰の和平を結び」とある。作中では分裂とだけ有って交戦中という記述がないので、取りあえず講和は成立している模様である。

 南北戦争に至る経緯を史実に基づいて大幅に改変した。いずれにせよ結果から逆算しているので、あまり大きな変更にはならない。興味はむしろ55年以降の状況を如何に面白くするかと言う一点にある。

 ラストで、レディ・エイダが新大陸での講演場所として「ボストンとニューフィラデルフィアの方。それともチャールストンとリッチモンドの方…」と述べている。前者が北部=アメリカ合州国で、後者が南部=アメリカ連合であることは明白だが、興味深いのはワシントンが入っていないと言う点である。南部連合の首都は史実通りリッチモンドで良いとして、北部の首都はボストンに落ち着くと思われる。フィラデルフィアは戦争中に一度炎上したと記述されており、その後再建された物と思われるが、南部領に近すぎるので首都機能は置かれなかったに違いない。なお北部最大の都市であるニューヨークは半ばコミュナード達の牙城となっている。共産主義者の動向については改めて考察したい。

 更に考慮の上、フィラデルフィア炎上の時期をニューヨーク徴兵一揆の直前に設定した。これは史実ではゲティスバーグの戦いに相当する。この方がマンハッタンコミュナードの蜂起が成功しやすいだろう。翌年のホイッグ党解党後の党名を共産党にしようかとも思ったんですが、作中ではそこまで赤化はしていないようなので止めた。むしろ、勢力の衰えた民主党の方が共産主義者との融和を図るかも知れない。

 55年時点の南北分断状態。

北部連邦(正式名アメリカ合州国USA)

 メーン州・ニューハンプシャー州・ヴァーモント州・マサチューセッツ州・ロードアイランド州・コネチカット州・ニュージャージー州・ニューヨーク州・ペンシルベニア州・メリーランド州・デラウエア州・オハイオ州・インディアナ州・イリノイ州・ウィスコンシン州・アイオワ州・ミズーリ州・テネシー州・暫定首都ボストン。

 南部連合(正式名アメリカ連合AU) フロリダ州・ジョージア州・サウスカロライナ州・ノースカロライナ州・ヴァージニア州(ウエストヴァージニアの分離はなさそう)・ケンタッキー州・アラバマ州・ミシシッピ州・ルイジアナ州・アーカンソー州・首都リッチモンド。

 ミズーリ州が北部に残ったために、南部連合には陸沿いに伸びる余地が全くありません。オクラホマは先住民保留地だし、史実より巨大なテキサス共和国(米墨戦争でメキシコから奪った地域すべてで、面積だけなら現状の北部・南部に匹敵する)が大きく立ちふさがっている。南部としてはスペイン領であるキューバが当面の目標となるだろう。

2−3 サム・ヒューストンの失脚(06/11/22新項 09/05/11全面改稿)

 作中でロンドン亡命中のヒューストン氏はいつテキサスを追われたのか。

 史実では南軍への荷担を拒絶して知事を追われている事から、南北戦争において南軍との同盟を拒み、南軍勝利の余波でその地位を追われたのでは、と無いか考察した。しかし、テキサス併合問題を考慮して、この政策で対立していたミラボー・B・ラマーによって追放されたのではと変更する。

 テキサスを追われたヒューストンはかつて知事を務めたテネシー州へ身を寄せ、南北戦争の終結の後ロンドンへ渡ったとしておく。

§3 ナポレオン三世の政治行動

 ナポレオン三世を史実より早く登場させる。以下は全て作中の記述を整合させるための物でである。もっとも有りそうなのが、ナポレオン贔屓のバイロン英国首相が、その甥であるルイ・ナポレオンの後押しをして、第二帝政の成立を早めと考える。

 しばらく気付かなかったのですが、よく読むと作中から皇后は史実と異なってイギリス人女性であることが分かる。その為バイロン首相のナポレオン贔屓と相まって強固な英仏協商が形成されている。メキシコでの成功は新大陸では全く成功を収めなかった伯父の失敗と相まって、甥である三世の政治的手腕をフレームアップすることだろう。

3−1スエズ運河掘削計画

 作中では55年にはスエズ運河がフランスの手で既に掘削完了しており、これをどう整合させるかが問題となる。

 順番が逆になるがこれが史実より早いナポレオン三世の誕生と言う結論が生まれます。史実ではルイ・ナポレオンは36年と40年に二度クーデターを失敗しているが、この二度目を成功したモノとする。但し、帝政を長期化させるための作為から、初期の権威帝政をすっ飛ばして始めから立憲君主制を表に出した自由帝政として発足させる。これは後ろ盾となるブリテン政府の意向も考慮されている。

 さて肝心のスエズ運河だるが、46年にフランス主体の「万国スエズ海洋運河会社」を設立し、翌年から着工。史実では10年掛かっているのですが、この世界では蒸気機関の発達が目覚ましいですから。「巨大な掘削機械の燃料に、瀝青がたっぷりしみこんだミイラを使った」と言うフランス人の気合いを考慮して、半分の5年間で完成したと言う事にする。

3−2 フランス領メキシコ

 メキシコ帝国で無い事が点が注目点である。ナポレオン三世の皇后がイギリス人であることからハプスブルグ家のマクシミリアンを担ぎ出すという史実での展開とは異なったモノであろう。

 侵攻時期について検討した結果、南北戦争直後の54年としたが、今後の見直しもあり得る。

§4 新世界秩序 現在進行中

4−1 ラテンアメリカの混沌

 ナポレオン戦争に端を発した20年代までのラテンアメリカ独立戦争に関する史実データをそのまま転記した。合州国の大分裂と対照的に南米の大国大コロンビア(史実ではベネズエラ・コロンビア・エクアドル)は分裂せずに健在である。

 史実よりは強力とは言ってもこれを全て治めるのはブリテン一国の手に余ります。必然的にフランスの発言力は増し、”英国の平和”ではなく、パックス・フレンチ・ブリタニカ=”英仏協商の平和”という事になるだろう。

4−2 英領カナダの拡大

 カナダの自治権拡大はほぼ史実通りとして、40年代の飢餓の時代をどうするか。アイルランドへの支援により史実の様なアイルランド系移民の増加はあり得ない。人の移動ではなく、むしろ食料の輸送が予測さる。

 この不測・不足の事態を埋める方策としてフランス系、ドイツ系を増やすという手が考えられる。流れとしては、第二帝政の誕生によってフランスの抵抗派の一部が国外へ逃亡、また一部は第二帝政との妥協により運動派の暴走に対する歯止めとなる事を選択。ドイツは反対に、マルクスが大陸へ逃げたように、過激な自由主義者の流出が起き、結果として48年の革命は起きないか、起きても極めて小規模に留まると言う連鎖が生じる。

 自由主義への改革が進む英仏協商と逆に遅滞するドイツ陣営(プロシア・オーストリア)と言う色分けになる。このまま行くと共産革命はロシアではなくドイツで起こる可能性も生じるのだが。

§5 共産主義の台頭

§5−1 マルクスとエンゲルス

 作中の記述から、この両雄に直接の面識・交遊が無い事が読みとれる。また年代は不明だが、マルクスはニューヨークへ渡り、徴兵一揆をきっかけにマンハッタン島にコミュナードの建設に成功している。

 マルクスは42年にライン新聞の編集長に成っているが、プロシアの官憲によって廃刊に追い込まれてパリへ逃れた。史実ではそこでエンゲルスと出会ったのだが、都合のいい(?)事にこの時点でのパリは第二帝政下にある。エンゲルス氏は恐らくパリには行かずマンチェスターに留まって父の後を継いで紡績業に勤しむこととなり(これは記述より読みとれる)、マルクスはそのまま新大陸へと渡ってしまう事になったということになる。

§5−2 共産革命 研究中

 先に触れた様に史実のようなロシアでの共産革命は多分起こりえないだろうと思うが、その代わりドイツかアメリカが先に共産化しそう(マルクス思想的には正しい)である。ドイツは元々共産主義思想の強い地域であるし、アメリカではマルクス氏が活躍している。彼の盟友エンゲルス氏は彼の思想に共鳴しつつもまだ面識がないらしいので、マルクスの動向は検討の必要が有る。

§6 清朝の行方(06/12/01新項)

6−1 洋務運動と軍閥

 アヘン戦争が無いと言う仮定で設定を詰めているが、そうすると清朝の衰退過程に連鎖的な変動を来す。

 アヘン戦争それ自体が清朝に与えた影響はさほど致命的なモノではないが、それによって西欧列強の脅威について目覚めた人物が居る。それらについては、先に日本の開国・維新があるのでそこから情報を取って貰えばいい。(欧化に対する日清の順序が逆転する事になる)

 キリスト教を元にした拝上帝会は少なくとも発生時期がずれる事になる。また太平天国の乱も、アロー戦争と重なる事で膨張拡大した事から、史実より小規模なモノに収まる公算が大である。そして太平天国の乱が無いと、その鎮圧のために起こった郷勇の肥大化、軍閥化への流れも生まれない。

6−2 清露国境と派閥抗争

 アヘン戦争が無いから清朝が安泰かというとそうも言えない。

 西方への拡大は英仏協商に止められたロシアだが、東方では史実より成功している。地図によれば、清露国境は現代の中ロ国境のレベルまで後退している。これが実現するのは60年の北京条約なのである。これは史実ではアロー戦争の戦後処理として現れているので、ロシアが単独で、しかも史実より早くこれを成し遂げるのは難しい。

 インドシナが既にフランス領となっているので、清仏戦争を前倒ししてその余得を得たと考えるのが妥当だろう。時期的には南北戦争と同時期、英国が南部連合に肩入れしてアジア方面から目を離している隙に行われる。

 ちなみにベトナムで坑仏運動を繰り広げた黒旗軍の創始者・劉永福も太平天国上がりである。

 さて、ロシアの進出が史実より早い場合、何が起こるか。清朝では李鴻章を中心とする海防派と左宗棠が主導する塞防派の主導権争いがあった。ロシアの進出はこの派閥抗争に影響すると思われる。日本の維新改革が清国の洋務運動に先んじて進行する状況を考え合わせると、史実とは逆に塞防派が優勢になると思われる。

 この変化はその後の日本の対外政策についても大きく影響するだろう。

§7 英仏協商とロシアの植民地争奪戦(06/12/05新項)

7−1 インドシナ

 ベトナム阮朝の初代嘉隆帝はフランス人司教の支援を得て西山党の乱を平定した。しかしその跡を継いだ明命帝は攘夷思想の持ち主で一転してフランスとの距離を置くようになる。

 そんな中、コーチシナで帝に疎まれていたレー・ヴァン・コイが反乱を起こす。フランスはこの時期、アルジェリアへの侵略を行っていて遠い東南アジアまで手が回らないのだが、ベトナムのライバルであるシャムへの武器を供与と軍事顧問団の派遣によって干渉が可能となる。

 橋頭堡が築かれれば、後はベトナムとシャムの対立を利用しつつ徐々に植民地化が進むだろう。

7−2 ビルマ

 第一次英緬戦争は変更の余地無し。その後反英の王弟タラワデイが兄を退けて即位し、講和条約を破棄するのだが、この時点でのリアクションは公使の召還のみ。この翌年にアフガン戦争が始まっているし、更にその2年後にはアヘン戦争と忙しい。アフガニスタンもビルマもインドの隣であるので、どちらを優先するかと言う問題だろう。

 フランスが既にベトナムへ橋頭堡を築いている状況なら、先にビルマを押さえようと言う事になるだろう。史実から見れば、アフガン戦争はほとんど実入りが無くアフガン人の愛国心を高めただけであるし、交渉次第では手を結べた可能性が高い。条件としてはペシャワールの割譲辺りが落しどころであろう。

 ロシアの南下に対抗してその緩衝地帯となるアフガニスタンを強化するのは悪くない。アフガン戦争はロシアにやって貰うと言うのも面白いだろう。

7−3 東方問題(予定)

 バルカン半島における三帝国(ロシア・オーストリア・トルコ)の国境線についての検証。

§8 南米の独立運動(06/12/12)

 ポイントは二つ。史実では分裂した大コロンビアの存続、そしてシスプラチナ共和国の誕生である。

8−1 シスプラチナ共和国

 これが史実に於けるウルグアイに相当する事は地図から読みとれる。この名称が長い事謎だったのだが、ブラジルのポルトガル人がウルグアイ地方をシスプラチナと呼んでいたらしい。

 史実では、ウルグアイはラプラタ連合(後のアルゼンチン)の一員としてブラジルの干渉と戦ったが、この設定では逆にブラジルの後ろ盾を得てラプラタ連合と戦う事になる。

 結果として誕生したシスプラチナ共和国は史実よりやや広い国土(ブラジル南端のリオグランデ・ド・スル州を併せる)を持ち、その代わりにスペイン語ではなくポルトガル語を公用語とする。この設定が次の大コロンビアの存続と連動するのか、しないのか。

8−2 大コロンビア(08/02/05微修正)

 シモン・ボリバルが一代で作り上げた大コロンビアは彼の死と共に分解する。しかし、その分解過程は彼の生前から始まっていた訳で、単純に彼の寿命を延ばしてみても収まらない。

 第一の改変点はサン=マルティンとの会談である。二人が何を話し合ったかは不明だが、確かなのは二人の共闘が成らなかったと言う事である。結果としてボリバルはサン=マルティンが受け持つべきペルー副王国の解放まで引き受ける事になり、新国家の体制作りに時間を取れなくなってしまった。サン=マルティンが手を引かなければ、ボリバルとその腹心スクレはペルーの王党派を一掃した後コロンビアへ戻って内政に専念出来ただろう。

 ベネズエラが大コロンビアから離脱してしまったのは、一言で言えば首都ボゴタが遠すぎた所為である。ボリバル自身ベネズエラ生まれであり、将軍達もベネズエラ人ばかりである。それが遠いコロンビア人の命令を聞かなければならないと言うのは納得行かないだろう。といってカラカスでは大コロンビアの首都としては東により過ぎている。両国を繋ぎ止めるためには、ボゴタとカラカスの中間辺りに新都を建設する必要がある。これが第二の改変点である。

 二つの国家を一つにする場合、一方が圧倒的に強力でない限り、両者の真ん中辺りに中心を持ってくるのが常道である。カナダなども、元フランス領のケベックとイギリス領のオンタリオの境界辺りにあったオタワを首都として選定している。大コロンビアの新首都名は当然”リベルタドル市”になるだろう。

 第三の改変点はちょっとした遊びである。つまり人材の補填、いわば助っ人の採用である。現在の候補は史実より早くイタリアの統一を終えて暇?なジュセッペ・ガリバルディ氏である。彼は南米の独立運動に参加して実戦経験を積み、その間にブラジル人女性と結婚している。そして一度目の蜂起に失敗した後、再び新大陸へ渡り、ボリバルの恋人マヌエラ・サエンスとも出逢っている。ガリバルディはボリバルと比べると二十以上、スクレからも見ても十以上若いので先行き有望である。

8−3 ハイチとキューバ(08/02/05追補)

 イスパニョーラ島全土がハイチと成っている。この島は元々スペイン領であったが、ナポレオン戦争によるフランス領となり、その没落と共に東部はスペイン領へ戻ってしまった。その後、東部は再独立を果たすが、人口で優る西部ハイチの侵攻を受けてその支配下に落ちる。

 さて東部がスペイン領へ戻されたのは実はナポレオンの実兄であるホセ1世の時代なのだから、此処を無しにしてしまえばウィーン条約後も一体のままハイチとして存続出来るのではないか。もう一つの条件としては、ハイチが内乱で弱体化しない事である。これを満たすため、独立指導者トゥーサン・ルーヴェルチュールが(イギリスの後押しによって)勝ち残り、ナポレオンからの譲歩を引き出したとする。

 史実ではトゥーサンが英国が未だ奴隷貿易を続けている事に不審を抱いた事で共闘が壊れているので、英国の奴隷貿易禁止を5年ほど前倒ししておく。

 史実でドミニカ共和国が分離したのは、フランスへの賠償問題(ハイチから一掃された白人農園主への損害賠償)による経済負担によるので、これをブリテン政府の仲介で減額・代理弁済することにより衛星国化された事とする。

 さて、更なる問題はキューバである。地図上では独立国であるかのように表記が見える。史実のキューバ独立は実に20世紀に入った1902年の事。もし19世紀に独立の機会が有るとすれば、英米両国の支援は不可欠である。

 時期としてはカルリスタ戦争の最中、主軸となるのは当然ながら合州国になる。スペインは気の毒にも本国の一部が分離した上のみならず、有力な海外植民地までも奪われる。余りにもブリテンに有利過ぎる展開だが、よく見ると英領の筈のジャマイカも表記がある。ハイチ、キューバと独立の連鎖が起こったとも考えられるが、むしろ奴隷貿易の停止の方が影響が大きいだろう。要するに労働力の確保が難しいので維持出来ない訳だ。

 さて、手放すにしても放っておけばキューバと同じく合州国の影響下に納まってしまい、ブリテン政府としては面白くない。そう言えばこの地域には有力な引き受け手がもう一国ある。つまり南米の新興国大コロンビア。と言う訳でカリブ海の勢力均衡策から、ジャマイカは大コロンビアの衛星国とされる。(採算の取れなくなった小さな島=ジャマイカを手放して、より大きな島=イスパニョーラを手に入れた事になる)

 それでもまだ合州国の方が強い。そこで(ブリテン政府の謀略によって)南北戦争が発生し、合州国は二つに引き裂かれる事になる。

§9 アフリカ分割(06/12/19第一稿・09/01/26増補)

 本格的な分割はベルリン会議(1884年)からなのだが、アジアにおける植民地の拡大に比べるとこちらは大人しい。英仏協商による奴隷売買禁止政策によりアフリカ開発の旨味が無くなっている所為かもしれない。

9−1 ケープ植民地

 史実ではウィーン会議でイギリス領となり、ボーア人(オランダ人を中心とする入植者)達が押し出されナタール共和国が作られた。これは数年でイギリスに潰され、更に奥地に逃れたボーア人によりトランスバール共和国、オレンジ自由国が作られたのだが、それが見られない。

 恐らくはケープ植民地はナポレオン戦争の後でオランダの手に戻されたのだろう。代替地として南米のオランダ領ギニア(現スリナム)が英領となっているのが確認出来る。

 これによりズールー王国との軋轢も無く、その後のボーア戦争も恐らくは起こらない。

9−2 リベリア帝国

 この国は作中でも言及されている。地図を見ると史実のリベリアより遙かに大きい。リベリアの隣にはイギリスの植民地であるシエラレオネがあり、イギリスが奴隷貿易船より救い出した黒人達は此処へ送り込まれる様になっていた。それが作中では「リベリアのジャングルに」とされているので、シエラレオネは合意の上でリベリアに併合されたのだろう。

 リベリアは更にその東の象牙海岸、黄金海岸までその領土を延ばしている。史実では英仏が植民地かした地域であるが、この拡大過程でリベリアの帝政が確立したのであろう。

 衛生的にはまだまだ良好とは言えず、いずれシュバイツアー博士(あるいはそれに類似した人物)がやって来るだろう。日本の野口英世が黄熱病の研究に倒れたのもこの地域である。

 医療や環境についてもいずれ別の場所で考察したい。

9−3 ニジェール皇国

 ほぼ現在のナイジェリアをカバーしている。此処はイギリスの間接統治の好例(上手く行きすぎたため、独立後に大きな問題を発生したが)であった。イギリスの傀儡政権である可能性も有るが、前項でも判るように、むしろイギリスは西アフリカ方面から手を引いている公算が大きい。この国はイギリスの圧力が無くなった結果、内陸に発生したイスラム国家が張り出してきたと見るべきだろう。

9−4 エジプトとスーダン(保留)

 ムハンマド=アリー朝の独立はギリシア独立運動から派生しているので、エジプトはオスマン帝国から独立していないかも知れない。

 これは東方問題にも大きな影響を与えるし、スエズ運河に至る過程も再検証の必要がある。

今後の課題

* 英仏植民地の拡大とアフリカ探検

 マロリー博士が受けた地理学会の特別会員指名委員会において”コンゴのエリオット”成る人物が登場する。

 史実ではコンゴはベルギー王の私領と成るのだが、この世界ではベルギーの分離独立がない。

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