公儀忍び組の歴史

序の段 公儀忍び組の誕生

 公儀忍び組は伊賀組甲賀組根来組とある、と言うのはほぼ一般常識のようですが、その詳細についてはほとんど知られていないようです。

 伊賀組は永禄の頃(「信玄忍法帖」から永禄九年と解ります)信長に追われた服部半蔵の手勢が中核となって創設されました。ついで元亀の頃に甲賀組が半蔵の縁故で加わり、天正十三年に豊太閤に滅ぼされた根来が新たに召し抱えられ根来組が生まれました。(「忍びの卍」より)

 伊賀は天正九年の攻撃でその本貫地と完全に切り離されました。それがその後の服部宗家の衰微に繋がるのですが、それはさておき、甲賀は信長と比較的良好な関係を保っていましたが、甲賀郡が南蛮寺領とされる(「甲賀南蛮寺領」)に及び一致団結して信長への抵抗を開始します。本能寺の変もあって甲賀伊賀の様な全面攻撃は免れます。

 家康に拾われた根来組はその後成瀬隼人正の下に組み込まれ、彼が尾張家の付家老を命じられるに及んで同家の御土居下組を形成し、また一部の精鋭が犬山城下で木曽根来組を組織することになりました。こうして犬山は根来組の第二の聖地となり、江戸や名古屋へ定期的に人材を送り込むことになるのです。(「忍法しだれ桜」より)

 一方根来の本貫地紀州は豊臣時代の浅野家支配を経て徳川頼宣の所領となりました。根来寺は頼宣により再建されましたが、彼ら忍法僧はかつて松永弾正に使われていた様な奇怪な能力を持ち合わせて居らず、柳生十兵衛魔界衆の戦い(「魔界転生」)では単なる消耗品扱いにされていました。根来の再生は百年後の吉宗の時代まで待たねば成りません。

破の段 忍び組宗家・服部一族の衰亡 →服部宗家

 初代服部半蔵正成は永禄年間に徳川家に仕え、最終的に八千石を得る大出世を遂げます。記録(=忍法帖)に残る彼の任務は信玄の生死を探りだす事でした。(信玄忍法帖)この戦いは武田側の裏の司令官である山本道鬼斎の死に至る事から服部組の判定勝利で終わります。しかしこの戦いが徳川家に与えた影響は大きく、後に家康の長男信康の造反を引き起こします。その介錯をしたのが他ならぬ初代半蔵であるというのは実に皮肉な結果と言えましょう。

 初代についてはこの後伊勢北畠家を巡る果心居士の暗躍(「忍法剣士伝」)に際して、僅かにその足取りが掴めます。

 初代が慶長元年に亡くなると、長子源左衛門正就が二代目半蔵となって忍び組を継承しますが、慶長九年に配下の叛乱により浪人します。この悲運の二代目は帰参を願って落城間近の大坂城へ忍び込み、真田幸村の陰謀を探り出した(「くノ一忍法帖」)ものの、手傷を負って亡くなります。この時の相手が”真田”であったのはやはり因縁でしょう。真田は徳川の天敵である以上に服部の天敵であったのです。

 二代目の唯一にして最大の働き所は”天下分け目”の関ヶ原の合戦でした。小早川中納言の帰趨を探った二人は敵方の波ノ平党に敗れます(「忍者撫子甚五郎」)。東軍の苦戦に半蔵は成敗されかかりますが、秀秋の心変わりによって救われます。これと平行して行われたのが伊賀組による石田領国友村の引き込み作戦。石田方の甲賀忍者の妨害を排除し、任務は完遂されましたが合戦での失態を埋めるには至らなかったようです(「忍法関ヶ原」)。

 服部家は次子正重が継承しますが、石高は三千石に減じます。兄よりは政治的な手腕を持ち合わせていた三代目半蔵は大久保長安の娘を娶って復活を目指しますがこれが却って忍び組の勢力を弱める結果となります。長安の身辺を守るために送り込んだ伊賀組の幹部五人が倒され(「銀河忍法帖」)、また長安の落とし胤を始末するために今度は甲賀組の幹部五名を失う事になります(「忍法封印いま破る」)。

 史実では三代で絶える服部宗家ですが、忍法帖には初代の末子である四代目半蔵が登場します。始め京八郎と名乗っていた四代目半蔵は、兄である三代目と比べても親子ほども歳の違いがあり、それ故に甘やかされていた忍者としては落ちこぼれでした。しかし家康の一言で豹変し、兄正重をも討ち果たす程の業を冴えを発揮したのは服部家の血のなせる業でしょうか。

 この四代目半蔵正広こそ、初代による伊賀鍔隠れ谷甲賀卍谷の抗争を解禁した人物(言い換えれば忍法帖に最初に登場した人物)です。彼が何故この様な決断をするに至ったのか。それはこれに先立って起こった同年の有る事件が絡んでいると思われます。

 家督相続後すぐに与えられた任務が、里見家の八玉の強奪でした。命令元である本多佐渡守の意図は政敵大久保家に連なる里見家を改易に追い込むことでした。半蔵の送り出した伊賀のくノ一達は一度は奪取に成功しますが、若き八犬士たちの意外な奮闘により全ての玉を奪い返されてしまいます。この時点では里見家の改易は成らず、減封に留まりました。しかし忠義は嫡男に恵まれず元和八年に無嗣断絶になりましたから長期的に見れば成功と言えなくもないでしょう。

 問題はこの時伊賀組を破った八犬士達です。彼らは中途で投げ出したとは言え、甲賀卍谷での修行を経験していました。元々忍術に疎かった半蔵正広が恐らくこの時に恐るべき二つの隠れ里を知ったのでしょう。伊賀甲賀の幹部が先代の晩年に失われ戦力的に弱体化していた忍び組との頭しては、この二つの隠れ里を切り札として投入したくなる気持ちは充分に理解出来ます。

 四代目の実質的な最後の仕事が長兄源左衛門が命をかけて探り出した真田の謀略でした(「くノ一忍法帖」)。しかし半蔵正広はこの時も仕事を完遂出来ませんでした。この事件の後程なくして彼が浪人するのも、この失態が原因でしょう。

 これで服部家の嫡統は絶えますが、少なくとも寛永年間までは忍び組の組頭は半蔵(五代目?)を名乗って登場します。この半蔵も錯乱した柳生十兵衛(じつは金春竹阿弥の能”世阿弥”によって応永から連れてこられた過去の十兵衛)に唐竹割にされました。(「柳生十兵衛死す」)これ以後、半蔵を名乗る者は現れていません。

急の段 忍び組の抗争

 そもそも家光が将軍職に就けたのは封印を解かれた伊賀鍔隠れ谷衆甲賀卍谷衆との死闘の結果(「甲賀忍法帖」)でした。この戦いは忍法帖の始まりであると同時に忍び組抗争史の始まりでもあるのです。

 この死闘で最後に残ったのは甲賀弦之介だったのですが、彼は恋人への憐憫から伊賀組へ勝利を譲ってしまいます。結果、三代将軍は兄竹千代後の家光に定まる訳ですが、この結果甲賀組は長く不遇の時代を過ごすことになります。その後吉宗の時代に至るまで(「くノ一忍法帖」・「外道忍法帖」・「忍法月影抄」)公儀御用に用いられるのは全て伊賀組でした。

 抗争史の初期、徳川の楯の走狗となった忍び組は外部の敵と戦うよりはよりは内部抗争の為にその力を振るっていました。信濃くノ一伊賀組の戦い(「くノ一忍法帖」)も、これを操る千姫本人の意思はともかく、結局は獅子身中の虫でしかありません。これに懲りたのか、あるいは憑き物が落ちたのか千姫はその後は忍びとは付き合わず、次の戦い(「柳生忍法帖」)には剣士・柳生十兵衛を担ぎ出す事になります。彼女は本多家への再嫁に当たって柳生の剣士を伴っています(「忍法聖千姫」)から、柳生家との縁はこの時からと言うことになるのでしょう。

 逆に懲りなかったのが千姫の「年下の叔父」紀州頼宣で、その後も由井正雪と組んで頻りに暗躍を繰り返します。その執念は遂に孫の吉宗によって実を結ぶ事になるのですが、それはともかく…。

 徳川家に置ける忍者組の序列は、仕官の順に伊賀甲賀根来であった筈です。しかし忍び組の統括者である服部家の断絶により、この順位も絶対的な基準では無くなります。抗争開始時点では根来はまだ分裂状態で、彼らが伊賀甲賀と並び立つように成ったのは、本多正信から”徳川の楯”を引き継いだ土井大炊頭利勝(「忍者本多佐渡守」において彼は根来の姉弟をも譲り受けています)の引き立てによるものでした。

 大炊頭は駿河大納言忠長の排斥を目的として伊賀甲賀根来からそれぞれ代表者を一名登用し、各々に異なる任務を与えています。土井は前任者に比べると幾分か彼らに好意を抱いていた様に思われますが、まあそれも程度問題でしょう。→卍の影

 知恵伊豆こと松平伊豆守信綱は法王の聖貨を巡る由井正雪との争奪戦(「外道忍法帖」)に際して天草扇千代旗下の伊賀鍔隠れ谷上がりの忍者を用います。これに対して正雪は甲賀卍谷の精鋭を送り出しました。本貫地を喪失して完全に徳川家の走狗と化している伊賀に対して甲賀はまだ完全には徳川家の管理下に入っていないようです。やはり解禁後の初戦(「甲賀忍法帖」)で敗れた事も尾を引いているのでしょう。

 四代家綱の時代、権勢を振るっていたのは下馬将軍と謳われた酒井雅楽頭忠清でした。彼は何故か好んで伊賀を使い、その為に根来甲賀は冷遇されてきました。館林公綱吉と共にこの酒井大老の打倒を目論んだ堀田筑前守正俊が目を付けたのが根来小人組でした。これは小人組の頭根来孤雲斎の方からの売り込みが有ったものと思われます。

 永保末年四代家綱の死亡時における序列は、伊賀根来甲賀の順に成っていましたが、堀田筑前守と結びついた根来組によって伊賀組がまず没落します。しかしこの時の根来組の栄光は短く、堀田を疎んじた綱吉が柳沢吉保を通じて甲賀を取り立てて堀田を死に追い込んだため、庇護者を失った根来組は飛散し再び雌伏の時を迎えます。(「忍法双頭の鷲」)→五代将軍継承問題

 さて元禄期には柳沢と結びついた甲賀が圧倒的に強く、柳沢の命を受けて厳有院(=徳川家綱)の御落胤・葵悠太郎を襲います。(「江戸忍法帖」)結果的にこれは返り討ちにあって甲賀玄斎の直系が絶えることになりました。これで江戸の忍び組は実質的な力を喪失します。

 最初に没落した伊賀組は元禄の世には大奥の警護に落ちぶれています。そんな環境に鬱屈していた無明綱太郎鍔隠れ谷に降って”本場の”忍法を会得しますが、それを恋人の成敗に使う羽目になります(「忍法忠臣蔵」)。そう言えば、以前に妻を将軍に奪われた筏織右衛門(「忍びの卍」)も同じく伊賀者でしたねえ。

 根来伊賀甲賀を凌いで序列の一位となる画期が根来の本地を領する紀州徳川家吉宗の将軍継承でした。吉宗は江戸城入りする際に、紀州より隠密の一団を引き連れてお庭番の制度を作りましたが、その統領となったのが藪田助八は(明確な記述は有りませんが)吉宗の祖父頼宣によって再興された根来寺に属する忍者の末裔でしょう。柳生十兵衛魔界衆との戦い(「魔界転生」)で空しく死んでいった三十人の根来忍法僧の苦闘はこの様な形でようやくに報われたのです。

 過去に遡って見ても、根来柳生とは非常に相性が悪いのです。果心居士の直弟子である根来の七天狗(いわば第一世代)が松永弾正に属して伊賀者笛吹城太郎と戦った(「伊賀忍法帖」)際、後方から密かに支援を与えていたのが十兵衛の祖父新左衛門(後の石舟斎)でした。城太郎のお頭である初代服部半蔵はまだ独立領主で、弾正を忌避してか味方をしてくれませんでした。

 正雪との関わりから頼宣の暗躍ばかりが目に付きますが、江戸は元々援紀排尾の傾向にあったようです。吉宗の将軍就任によりその江戸と紀州が一体化した訳ですから、江戸と尾張との確執が顕在化するのは無理からぬ事でしょう。

 吉宗と尾張家との暗闘の第一ラウンドは尾張脱藩浪士による将軍狙撃未遂事件に端を発した物でした。(「忍法しだれ桜」)江戸と名古屋に練達の忍者を送り込んでいた犬山の木曽根来組はこの時の抗争でほとんど壊滅状態に陥りました。忍者の能力は修行もさることながら、血の掛け合わせに拠るところが大きいので、主要メンバーをことごとく失った木曽組の復興はもはや望めないでしょう。これにより根来の主流は再び紀州派(すなわち江戸本家)へと移ることになります。

 先代継友の無念を受け継いだ宗春の仕掛けた将軍吉宗の古い側室を巡る江戸と尾張の暗闘(「忍者月影抄」)は江戸のお庭番の伊賀鍔隠れ谷忍者と尾張の御土居下組の甲賀卍谷忍者を咬み合わせるのみならず、江戸と尾張の柳生流剣士を相打たせる事にも成りました。お庭番頭藪田助八は伊賀甲賀柳生が摩滅していく様を嬉々として眺めていたでしょう。これこそが彼の意図した真の狙いであったと思われます。

蛇足 忍び組の末路

 田沼主殿頭は権力の維持を目指して甲賀者を私兵化しようと画策(「天明の隠密」)しています。しかしその影で天明の名判官曲淵甲斐守が使う大岡組(田安宗武秘蔵の根来お庭番「天明の判官」)が密かに暗躍していることに気付きませんでした。彼らは見事に宗武の愛児松平定信の成長まで生き延びる事に成功しました。

 幕末に至って阿部伊勢守によって再発見されて医心方の争奪を演じます(「秘戯書争奪」)。これは初めて伊賀甲賀の位置が逆転しています。伊勢守が使うのが甲賀卍谷の忍者で、対する青蓮院の宮が繰り出すのが伊賀鍔隠れ谷の忍者なのです。

 それにしても、伊勢守は最近になって再発見したと言っていますが、彼に忍び組を使ってみないかと勧めた”或る人”とは果たして誰でしょうか。

 伊勢守は寺社奉行時代に当時の南町奉行鳥居甲斐守と元北町奉行遠山左衛門尉、その背後にいる本丸老中水野越前守忠邦と西の丸老中間部下総守との暗闘に巻き込まれています(「忍者黒白草紙」)。鳥居は伊勢守が敵方に荷担していると疑っていましたが。

 伊勢守に忍びを紹介したのはこのどちらかと見て良いでしょう。初めは遠山かと思ったのですが、伊勢守の丁寧な口調からするとやはり格上の相手と見るべきです。遠山は年上ではあっても所詮旗本であり、かつ医心方争奪戦の時点では遠山は亡くなっている事から見て間部下総守であると結論します。

 残る問題はその時期ですが、下総守は水野忠邦との対立から天保十四年には職を退いており、伊勢守はほぼ入れ替わりで老中に就いていることから申し送り事項だったと考えられます。これで服部万蔵(「妻の忍法帖」)についても一応辻褄が合うことになります。

関連稿 時代小説人物評伝 阿部伊勢守

戻る