家康編・前段

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慶長三年(承前) 

08/25 家康、前田利家と議し、在朝諸将の軍を返さしむ。(定本 武江年表)

十月初旬 秀吉の死を知った明兵、狂喜と乱酔から降倭に矢を射掛ける。(降倭変)

11/13 加藤清正釜山を焼き払い脱出。(降倭変)

11/18 降倭・稲富三四郎が李舜臣を撃った為、島津義弘は虎口を逃れる。(降倭変)

 前田慶次郎、上泉主水、直江山城を通じて上杉家に仕官。(叛旗兵)

慶長四年 己亥 三月閏

春 上杉家家老・千坂兵部、四人の豪傑と会合を持つ。大島山十郎、会合に探りを入れた徳川の密偵を討ち果たし上杉家への仕官を許される。山十郎は直江山城の推挙で景勝の小姓に成る。(くノ一紅旗兵)

03/03 前田利家、大坂にて卒。(定本 武江年表)

秋 山十郎、御前試合にて鍬形丈兵衛をうち倒し、景勝の寵愛を勝ち取る。(くノ一紅旗兵)

慶長五年 庚子

春 真田左衛門佐の妻鞘絵、出産のため実家大谷家へ帰国。(刑部忍法陣)

03/16 オランダ船リーフデ号、豊後に漂着。(定本 武江年表)

 淀の方、家康の妾になれと言う本多佐渡守の要求に対し「我が夫は故太閤のみ」と突っぱねる。(刑部忍法陣)

 高台院、甥小早川秀秋に対し、淀の方のモノとなった豊臣家を滅ぼす様に示唆する。(刑部忍法陣)

06/02 家康、会津上杉家の討伐を布告。(刑部忍法陣)

06/16 家康、大坂を進発。(刑部忍法陣)

06/17 家康伏見に入る。(忍法関ヶ原)

07/11 大谷刑部、西軍への参加を承諾。(刑部忍法陣)

七月 西軍挙兵。

07/16 細川忠興の妻で明智光秀の娘たま通称ガラシアが、人質として大坂入城を強要されて死を選ぶ。38歳。(忍法ガラシヤの棺)

 この時逃れた長男与一郎の妻千世(前田氏)は岳父忠興の怒りを買って離縁される。(叛旗兵)

07/24 小山評定。上方での挙兵を知った会津征伐軍、反転を決定。(叛旗兵)結城秀康、上杉への押さえとして残される。(羅妖の秀康)

09/01 国友鉄算、家康の反転を知り大砲鋳造の準備を始める。(忍法関ヶ原)

09/05 徳川秀忠軍、上田城を攻撃。小野次郎右衛門、敵真田陣中に師一刀斎を見て兵を引く。その行為を怪しまれ後日蟄居になる。(死なない剣豪)

09/10 この頃、酒田城に居を構える上杉軍の志田義秀ら3000の兵が最上義光攻撃のために山形方面に進軍を開始する(家康が再び米沢を攻撃することに備えるため)。(新暦1600/10/16)

09/13 国友衆、徳川方・成瀬隼人正に一貫目玉鋳銅砲五挺・八〇〇目玉鋳銅砲十挺を渡す。(忍法関ヶ原)

09/14 真田幸村室・鞘絵、実家敦賀にて男子を出産。大助幸昌と名付けられる。(刑部忍法陣)

09/15 関ヶ原の合戦大谷刑部、小早川秀秋の陣を訪れ誓詞を取り付けるが、(刑部忍法陣)小早川中納言の返忠により徳川方の勝利に終わる。(忍者撫子甚五郎)

09/17 上杉家家臣・上泉主水泰綱、最上勢との戦いで戦死と伝えられる。主水、傷の癒えた後、廻国修行に出る。(叛旗兵)

 柳生宗矩、関ヶ原の勝利の余勢を駆って、弟刑部と高弟庄田喜左衛門を差し向けて松田織部之助を討つ。弓之助は逃れるが、織部之助の娘・卯月は捕らえられ、刑部の妻とされる。(死に顔を見せるな)

09/21 竹中喜平次、福島正則の伝手で東軍に参戦。地の利を生かし小西行長を捕らえる。喜平次、行長の生まれたばかりの娘を託される。(踏絵の軍師)

09/29 会津の上杉景勝の元に西軍敗戦の報が入る。(叛旗兵)

 芦名兵部、石田方に参軍。兄・掃部の嘆願により助命される。(銀河忍法帖)

 関ヶ原勝利の後、初めて関東より京都所司代を差置る。奥平美作守(信昌)これを勤む。(定本 武江年表)

慶長六年 辛丑 十一月閏

 結城秀康、越前北ノ庄七十五万石を得る。(羅妖の秀康)

七月 佐竹家の出羽転封を不満とした車丹波、佐竹の残党を糾合して水戸城を攻撃。敗れた丹波、身代わりを立てて逃亡し直江山城の元で保護される。丹波の遺児、後に非人頭車善七となる。(叛旗兵)

07/24 上杉景勝が京都に着き、伏見城で家康に謁し、謝罪・降伏する。(叛旗兵)

08/24 徳川家康が、上杉景勝を会津120万石から米沢30万石に移封する。(叛旗兵)

08/25 蒲生秀行(19)が会津若松城に入る。(新暦1601/09/21)

09/11 柳生宗矩が3000石となり、秀忠の兵法指南役となる。(魔界転生)

慶長七年 壬寅

08/28 家康の生母、伏見城にて亡くなる。小石川無量山寿経寺、御菩提寺として伝通院と号す。(定本 武江年表)

十月 小早川秀秋、己に癩の症状を見て大谷刑部の呪いを感じ狂死あるいは自殺。(刑部忍法陣)小早川家、継嗣無く断絶。(叛旗兵)

 直江兼続、弟大国大和守より養女伽羅を貰い受ける。(叛旗兵)

慶長八年 癸卯

02/12 家康、征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開く。(定本 武江年表)

 この年、江戸町割命じ給う。この時、日本橋を初めて掛らる。(定本 武江年表)

七月 家康の孫千姫、豊臣秀頼に嫁す。(定本 武江年表)

 茶屋四郎次郎(二代目)死亡。長崎奉行長谷川左兵衛の養子となっていた弟が三代目を継承。(慶長大食漢)

 柳生兵庫、加藤清正に仕官。(魔界転生)

 宮本武蔵、柳生の庄に現れ老剣士達を敗る。(叛旗兵)

 上泉泰綱、岩国で佐々木小次郎という天才少年剣士と知り合う。小次郎、泰綱の一言で長刀を持つようになる。(叛旗兵)

慶長九年 甲辰 八月閏

二月 日本橋をもとと定められ、東海道及び越後・陸奥等の諸道へ一里塚を築かしめらる。(定本 武江年表)

 泰綱、京への帰途柳生へ寄り、昨年の宮本武蔵の話を伝え聞く。京へ戻った泰綱、物干竿を背負う小次郎と再会。(叛旗兵)

 宮本武蔵、吉岡兄弟を敗る。(叛旗兵)

 服部半蔵正就、家康の勘気を被って蓄電。服部宗家は弟正重が継ぐが、家禄は八千石から三千石に減らされる。(忍者服部半蔵)

慶長十年 乙巳

04/16 家康、秀忠に将軍職を譲り、以後大御所と称さる。(定本 武江年表)

 幕屋弓之介、怨敵柳生刑部とその妻となったかつての恋人卯月の居る膳所城下に現れる。弓之介、膳所城下を騒がせる謎の鎧武者を斬るが、その正体は…。(死に顔を見せるな)

慶長十一年 丙午

04/19 柳生宗厳(石舟斎)が柳生庄(奈良市)で没。80歳(誕生:大永7(1527))。柳生新陰流の祖。(新暦1606/05/25)祖父・石舟斎の死後、兵庫は加藤家を去る。(魔界転生)

07/27 家康、初代茶屋四郎次郎の命日に三代目を訪問。家康食事に遅れ四郎次郎から叱責される。(慶長大食漢)

秋 秀康、再生した鼻と魔羅の機能の逆転に気付く。(羅妖の秀康)

秋(十月頃) 結城秀康、駿河の所望を退けられ、無断で国元へ引き上げる。(摸牌試合)

秋の終わり 家康、親豊臣的な行動を繰り返す秀康を危険視し、その成敗を服部半蔵に命じる。(羅妖の秀康)

 宇喜多秀家、八丈島に流刑。上杉を牢人して宇喜多家に仕えた千坂兵左衛門、大谷刑部の忘れ形見とされる正木左兵衛これに同行。(叛旗兵)

慶長十二年 丁未 四月閏

02/13 御城の辺(今のもみぢ山)にて、観世・金春勧進能興行あり。同所にて出雲の阿国が、歌舞伎興行あり。(定本 武江年表)

三月末 大久保長安、愛妾お扇の方の懇願で伊豆天城峠で見かけた撫衆の娘をさらう。お扇の方、撫衆の報復を受ける。(いだてん百里)

閏04/08 家康の次男・結城秀康、没。34歳(誕生:天正2(1574)/02/08)。公式には腎虚だが直接の死因は窒息死であった。(羅妖の秀康)

 死んだと思われていた滝川左近将監、玄妙坊と名乗り存命。仙丈ヶ岳において淀殿呪殺を計画するが、太閤に良く似た撫衆の一括を受けて谷へ飛び降りる。(いだてん百里)

07/03 家康、隠居の地と定めし駿府城修築成り、これに移る。(定本 武江年表)

慶長十三年 己申

春 上泉伊勢守の高弟・疋田小伯の弟子山田浮月斎、大坂の依頼で柳生に決闘を挑むが茶屋四郎次郎の献策により、柳生の代表が勝利を収める。(慶長大食漢)

五月 真田月叟、配下の猿飛を使者に立て撫衆取り込みを謀る。同様の目的で動く徳川の隠密と争う。(いだ天百里・六連銭)

  小西摂津の遺児・カタリナ呉葉姫、加藤主計の手の物に襲われ、江戸へ向かう出雲の阿国の一座に潜り込む。(いだ天百里・地雷火)年譜上では阿国の江戸入りは前年になっているが、一度とは限らないだろう、とフォローしておく。

12/24 吉良義彌、従五位下侍従・左兵衛督に叙任。高家に任じられる。(諸説あり。職制としての高家職は元和・寛永年間と思われる)(叛旗兵)

慶長十四年 己酉

四月 島津侯、琉球を征して中山王尚寧を将い来らる。(定本 武江年表)

 松代城主・松平忠輝、老臣より乱行を訴えられる。家康は息子の言い分を認め、老臣達に切腹を命じる。翌年、越後福島へ加増転封。忠輝、伊藤一刀斎を招き刀術の修行に励む。(倒の忍法帖)

09/23 宮中の公家と女官の密通事件を幕府が処断する。(叛旗兵)

新暦11/14 乾午之丞、平戸の領主松浦法印の命によりガスパル西玄可とその妻ウルスラ、息子ヨハネを切支丹として処刑。クララお千絵は午之丞の懇願により助命。(邪宗門仏)

十二月 有馬晴信、長崎に入港したポルトガル船を撃沈する。(忍者本多佐渡守)

12/22 家康の11男徳川頼房が、頼宣が駿府へ転封になったあとの水戸25万石に移る。のちの御三家の一つである水戸徳川家の始り。(新暦1610/01/16)

慶長十五年 庚戌 二月閏

01/09 家康が、名古屋城築城を諸大名に命じる。(新暦1610/02/02) 名古屋藩主の秘密親衛隊として御土居下組が結成される。表向きは門番。(忍者月影抄)

春 岡本大八事件。贈賄側有馬晴信は改易となり、収賄側岡本大八は磔刑に処される。(忍者本多佐渡守)

春 350年後に目覚めるはずだった赤江荘吉・原千代子が、何故か350年前に目覚める。荘吉が佐々木小次郎の右肩をピストルでうち砕くのを見た柳生宗矩は二人を家康に引き合わせる。千代子、江戸城に天ぷら料理を広める。(江戸にいる私・出版芸術社版)

 成瀬隼人正正成、義直の付家老として附され、尾張へ移る。正成根来衆を居城犬山の門番に登用。(忍法しだれ桜)

秋 前田利長、大坂より秘状を送られる。利長、茶屋より料理人を贈られ、美食に溺れ修羅の浮世を厭う。帰国後、家督を弟利常に譲って隠居。(慶長大食漢)

九月 直江山城守兼続、出府。(叛旗兵)

十月 千坂兵左衛門、正木左兵衛八丈島より赦免される。直江山城、左兵衛に婿入りを乞う。(叛旗兵)

10/20 八丈島より帰還した正木左兵衛、直江山城の養女伽羅の婿となる。大御所家康を始め、諸大名列席。伽羅、婚礼を嘲笑う諸将を一喝、家康その剛毅を褒める。(叛旗兵)

10/25 伽羅、左兵衛を鍛え直すように直江四天王に依頼。(叛旗兵)

十一月 直江左兵衛、四天王を伴い本多家に使いする。四天王、本多長五郎正重とその両翼を固める武蔵・小次郎と対決。(叛旗兵)

11/15 草戸勘兵衛、平岡石見の命を受け、ひょっと斎に接近。直江左兵衛を大久保長安の風呂へ誘う。(叛旗兵)

11/20 平岡石見、長五郎の命を受けた武蔵に斬られる。(叛旗兵)

十二月半ば 左兵衛と伽羅、「石引き」を見物する。伽羅の草履取り三宝寺勝蔵、福島家といざこざを起こし、左兵衛達が福島家に捕らえられる。ひょっと斎、左兵衛の救出に向かい、旧知の可児才蔵と対決。才蔵、旧主筋にあたるひょっと斎を逃がし、切腹。(叛旗兵)

十二月末 福島家の跡取り刑部正之、食を断って死亡。その妻で大御所の娘・満天姫、実家へ帰る。(叛旗兵)

慶長十六年 辛亥

正月 直江山城、病気の主君景勝の代理で年賀登城。三日には駿府へ向かう。(叛旗兵)

一月半ば 大御所、駿府・西田屋の養女おちゅちゅより淋病をうつされる。西田屋、責任を蜂須賀家政に転化。(叛旗兵)

二月 直江四天王の一人岡野左内、武蔵・小次郎と麻雀卓を囲む。小次郎負けの精算のため、支度金を当て込んで伊達家に仕官。同じく負けが込んだ武蔵は自作の麻雀セットで精算した。これが実在したら凄いお宝だけど。(叛旗兵)

二月末 小次郎、デモンストレーションのため、上泉泰綱との決闘に臨むが水入り。伊達家への仕官を諦め細川家に狙いを変える。(叛旗兵)

春 茶屋、大阪城の侍女達に食を振る舞う。侍女達、美食に誘われて秀頼の上洛を押し進める。(慶長大食漢)

春 伏見で浅野家の家臣四人が殺される。明記はされていないが、浅野領内九度山で逼塞している真田の仕業らしい。(叛旗兵)

03/17 徳川家康が上洛する。(新暦1611/04/29)

03/27 後陽成天皇譲位。(叛旗兵)

03/28 豊臣秀頼が家康の招きに応じて上洛し、家康は居城の二条城で歴史的な会見の実現に成功する。これで徳川と豊臣の関係はまた一歩主従の関係に近付く。(新暦1611/05/10)秀頼吸い物だけのんで午後には帰城。茶屋が作らせた物でなかったかららしい。(慶長大食漢)荘吉、加藤清正に不審人物と疑われ、彼をピストルで撃つ。千代子、千姫と対面し側にいた若侍(後に木村重成と判明)に惚れる。(江戸にいる私・出版芸術社版)

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