秀吉・享楽編
天正十二年
一月半ば 黒田官兵衛、家康と織田信雄の攻守同盟を通報。(妖説太閤記)
03/03 信雄、秀吉の策にはまって、三老臣を誅殺。秀吉に攻撃の口実を与える。(妖説太閤記)
四月 池田勝入斎他の軍が中入れ作戦を決行。家康に察知され、強かな逆檄を被る。(妖説太閤記)可児才蔵、主君秀次を見捨てたため、家を退転、後に福島正則に拾われる。(叛旗兵)
11/11 信雄、家康に無断で秀吉と講和。(妖説太閤記)
長島城主竹中喜平次(半兵衛の息子)、地理上の関係か老臣の判断違いか信雄方に付いたため領地没収となる。(踏絵の軍師)
12/12 織田信雄が秀吉と和議を結んだため、戦う名分を失った徳川家康が2男の義伊(秀康)を秀吉の養子とする形で大坂に送る。(羅妖の秀康)
お玉、幽閉を解かれ夫と再会。忠興、お玉の血を長岡の家に伝えない事を宣告する。(忍法ガラシアの棺)
三月 少年使節団一行、ローマ入り。法王より教会建築資金として百万エクーを賜る。(外道忍法帖)
三月 根来が秀吉に壊滅させられる。(魔界転生・忍びの卍・忍法しだれ桜)
04/14 丹羽長秀、娘婿にと望んだ愛臣長束正家より破談を申し込まれ激昂。自殺して果てる。(妖説太閤記)
07/11 羽柴秀吉が前関白近衛前久の猶子となり姓を藤原と変え、関白に就任する。(新暦1585/08/06)(近衛忍法暦)
八月 佐々成政、降伏。この前後に秀吉、越水城で景勝と面談。秀吉方から三成、上杉方から兼続がこれに同席。上杉家、秀吉に心服する。(妖説太閤記)
十一月 石川数正、徳川家を出奔。秀吉の元へ走る。(妖説太閤記)
十二月 秀吉の養子秀勝、お市の方の末娘たつ姫と結婚し父信長の再来となる子を産みたいと宣言。数日後、たつ姫の婚約が纏まり、秀勝は吐血死。半兵衛と同じく毒が盛られたと思われる。(妖説太閤記)
上泉主水この年十才。父・伊勢守の弟子筋である柳生石舟斎の元へ送られる。(叛旗兵)
天正十四年
05/14 徳川家康(45)が、秀吉の妹旭姫(44)を正室に迎える。(新暦1586/06/30)妻を奪われた佐治日向守は自害した。(妖説太閤記)
09/09 滝川一益没。62歳(誕生:大永5(1525))。(新暦1586/10/21)(いだ天百里・狂天狗)
10/17 家康、上洛に先立ち、旭姫の悋気を沈めるために決死の覚悟で抱く。(近衛忍法暦)
10/27 徳川家康が大坂城を訪れて秀吉と会見し、臣従を誓う。(新暦1586/12/07)家康、二十五年前をなぞって秀吉の草履を揃えるという小芝居も見せる。(妖説太閤記)
12/19 秀吉が太政大臣に任じられ、藤原改め豊臣の姓を授けられる。(新暦1587/01/27)(近衛忍法暦)
天正十五年
06/19 秀吉による最初のバテレン追放令。(外道忍法帖)
天正十六年
天草一族、秀吉への臣従を拒み、小西行長に滅ぼされる。(外道忍法帖)
石川数正、五右衛門を使って秀吉の命を縮める算段を巡らす。(妖説太閤記)
蜂須賀小六、座頭・石阿弥(石川五右衛門)の素性を見抜き、秀吉に注進するが、却って疎まれる。(妖説太閤記)
淀の方、懐妊。(妖説太閤記)
天正十七年
07/05 淀の方、鶴松を出産。(妖説太閤記)
直江兼続、祖師堂を改装し正教寺を建立。(銀河忍法帖)
天正十八年 庚寅
大浦為信、小田原にいち早く参陣し、津軽の領有を承認される。(怪異二挺根銃)
三月 蜂須賀阿波守、家康から織田信雄に宛てた謀反の手紙を手に入れる。(家康は三成の策だと主張するが?)(風来忍法帖)
四月 太田三楽斎の孫娘・麻也、忍城主成田氏長に輿入れ。祝言の夜、氏長は呼び出されて新婦を置いて小田原へ向かう。(風来忍法帖)
04/22 江戸城、家康の武将戸田三郎左衛門忠次の手に入る。(定本 武江年表)
05/27 忍城攻略戦始まる。(風来忍法帖)
05/27 秀吉、家康に関東移封を通告す。(定本 武江年表)
05/29 小田原征伐の秀吉が、石垣山の城で茶会を催す。この時、家康は香具師の格好で秀吉を笑わせる。(風来忍法帖)
06/05 伊達政宗、小田原着陣。(風来忍法帖)
06/09 政宗、秀吉と対面。助命される。正宗、召し上げられた会津領と引き替えに愛妾お香の方を与えられる。(風来忍法帖)
06/21 天正遣欧少年使節団が長崎に帰還する。(新暦1590/07/22)(外道忍法帖)
06/23 忍城水攻め四日目。秀吉、曾呂利伴内を使者として、三成に忍城主夫人麻也の生け捕りを厳命。(風来忍法帖)
06/28 秀吉、家康の関東移封の本拠を江戸とするよう指示す。(定本 武江年表)
07/06 小田原開城。(風来忍法帖)
07/07 三楽斎、忍城に現れ、麻也を無事に落とす。(風来忍法帖)
07/11 氏政、氏照、秀吉の命により自害す。氏直は家康の婿故に一命を助け高野山に籠居す。(定本 武江年表)
07/13 秀吉、小田原城入り。家康に伊豆・相模・武蔵・上野・下野・上総・下総の六ヶ国への移封を正式発表す。(定本 武江年表)
07/19 忍城開城。(風来忍法帖)
08/01 家康、江戸に入府。(定本 武江年表)
羽柴秀康、人質としての価値を失い結城家に養子に出される。(羅妖の秀康)
夏の終わり 利休、娘お吟を差し出せとの秀吉の命を拒み、切腹に追い込まれる。一族は難を逃れ奥州の蒲生氏郷に保護される。(妖説太閤記)
秋 石川伯耆守、旧主・家康の内意を受けて秀吉に大陸出兵を薦める。(近衛忍法暦)
蒲生氏郷、大陸出兵に異議を唱えた為に会津への転封が命じられる。氏郷の妹が兄嫁の代わりに自分が大坂へ残ると申し入れる。(妖説太閤記)
天正十九年 辛卯 正月閏
02/28 千利休、秀吉の命により切腹。利休、果心居士の予言を思い出し慄然とする。(伊賀忍法帖)
石阿弥、鶴松を殺すため大野道犬を巻き込み、北政所に毒を吐く千鳥の香炉を薬だと偽って渡す。(妖説太閤記)
秀吉の養子木下金吾、小早川隆景の養子となる。(妖説太閤記)
08/05 鶴松死亡。(妖説太閤記)
09/28 秀吉、朝鮮出兵を命ず。(定本 武江年表)
11/04 北条氏直が河内国天野で没。30歳(誕生:永禄5(1562))。(忍者向坂甚内)
十二月 関白職を秀次に譲り後事を託す。(妖説太閤記)
天正二十年/ 文禄元年 壬辰
04/12 日本軍、朝鮮半島・釜山に上陸。(忍法破倭兵状)
05/02 京城陥落。(忍法破倭兵状)
06/05 日本の海将・来島半右衛門通之、唐蒲にて李舜臣率いる朝鮮水軍に敗れる。(忍法破倭兵状)
06/15 小西軍、平壌を占領(忍法破倭兵状)。
07/10 閑山洋の海戦。日本艦隊百十五隻が沈められ補給作戦が滞る。(忍法破倭兵状)
七月 秀吉、大政所の重病を聞き京へ戻る。道犬、息子治長を秀吉に引き合わせる。淀の方、少年を小姓として所望する。(妖説太閤記)
07/23 加藤軍、満州国境近くの会寧で朝鮮の二王子を捕虜にする。(忍法破倭兵状)
十月 秀吉、九州の大本営に西下。淀の方に子を宿らせるため、大野治長を側に置かせる。(妖説太閤記)
十月上旬 三成、太閤の妾にされた朝鮮の女達を殺害した鴻天忠を捕らえる。(おちゃちゃ忍法腹)
十月末 淀の方に妊娠の兆候。(妖説太閤記)
12/08 文禄改元
12月 明軍介入。戦線膠着状態となる。(忍法破倭兵状)
文禄二年 癸巳 九月閏
08/03 大閤豊臣秀吉と淀殿の実子として拾丸(豊臣秀頼)が誕生。(新暦1593/08/29)
09/15 岩間子熊、江戸大手大橋にて忘恩の根岸兎角を討つ。(忍法剣士伝)武江年譜では日本橋と成っていたが、この当時はまだ日本橋はなく、誤伝。
この年、小野次郎右衛門、徳川家に仕官。これに先立って兄弟子小野善鬼を小金ヶ原にて斬る。善鬼の乱心は師である一刀斎が彼の妻を奪ったからという。この時、師の一刀斎三十四才?(死なない剣豪)織部玄左衛門、兄弟子二人の争いを悲しんで師一刀斎の元を離れる。(江戸忍法帖)
文禄三年 甲午
石田治部、果心居士の幻法”おだまき”を見る。(忍法おだまき)
八月 伏見城竣工し、秀吉移る。(忍法おだまき)
年の末 秀吉、果心を召し出されおだまきを所望するが、過去を思い出して断念する。(忍法おだまき)
十二月末 加藤清正家臣・柳川右近、許嫁が関白秀次のために死んだ事を知り、捕らえられた唐虱=降倭(降伏日本兵)稲富三四郎を助けてそのまま降倭に身を投じる。(降倭変)
柳生又右衛門宗矩、父・石舟斎の紹介で徳川家に仕官。(魔界転生)上泉主水、この仕官に不純な物を感じ、柳生を去る。(叛旗兵)
甲賀丹波、甲賀の秘宝楊貴妃の鈴を淀殿より奪還するも逃走に失敗し捕らわる。(忍者石川五右衛門)。
文禄四年 乙未
二月初め 大野道犬、五右衛門と再会。拾いが治長の胤、ひいては五右衛門の孫であることを明かし、彼を救うため千鳥の香炉を消すように頼み込む。(妖説太閤記)
五右衛門、大阪城に忍び込みお拾いを盗みだすが途中で捕らえられる。(妖説太閤記)
02/06 石川五右衛門刑死。(妖説太閤記)
02/07 蒲生氏郷が京都で没。40歳(誕生:弘治2(1556))。五右衛門を捕らえた際にお拾いの出生を知ってしまったため、口封じのために三成によって毒殺された(妖説太閤記)。天海は磐梯山に潜んでいた弟芦名銅伯による呪殺ではないかと疑う(柳生忍法帖)(新暦1595/03/17)
岡野左内、蒲生を継いだ秀行とそりが合わず、直江山城の元へ身を託す。(叛旗兵)
07/06 秀吉、秀次を高野山に放つ。(定本 武江年表)
07/15 関白秀次、切腹。(虫の忍法帖)
08/02 秀次の夫人・妾婢・子女らことごとく三条河原に殺戮す。(定本 武江年表)
08/02 秀次の御台・側妾三条河原にて処刑。(虫の忍法帖)
09/17 淀の方の末の妹小督姫、家康の三男秀忠に嫁ぐ。(虫の忍法帖)
文禄五年/慶長元年 七月閏
07/27 初代茶屋四郎次郎死亡。長子が家名を継承。(慶長大食漢)
閏七月 朝鮮人、来聘。(定本 武江年表)
九月 秀吉、明の講和使節を追い返す。(降倭変)
十二月 大地震、月をこえて止まず。(定本 武江年表)
12/27 慶長に改元。
慶長二年 丁酉
三月 加藤清正、朝鮮の僧将松雲と会見。講和が決裂し戦闘が再開される。(降倭変)
04/11 秀忠夫人、長女千姫を出産。(虫の忍法帖)
09/16 珍島鳴洋峡において日本水軍撃破される。海将・来島出雲守通総、兄に続いて討ち死に。(忍法破倭兵状)
慶長三年 戊戌
01/10 蒲生秀行が、会津から下野宇都宮に移される。上杉景勝が、会津に移封となる。(新暦1598/02/15)(くノ一紅旗兵)
03/24 上杉景勝、会津へ入府する。(新暦1598/04/29)(くノ一紅旗兵)
08/07 秀吉錯乱。五大老が協議の上、秀吉の言動を一切取り挙げない事を取り決める。(忍法破倭兵状)
08/18 豊臣秀吉が伏見城で病没。62歳(誕生:天文6(1537)/02/06)。(新暦1598/09/18)