魔法世界の神学
魔法社会の第四テーゼ「魔法世界には神は存在しない。より正しく言うなら唯一絶対成る創造主はいない」*1
魔法世界に置いては神というのは一種の便法である。人々の祈り・願い・恐れ等々が神として結実するのである。RPGの創世記(D&D)以来、神の力というと真っ先に治療呪文と結びつきます。しかし、神が存在する、神の力が具体的に顕現する世界では聖職者にはもっと重要な役割が有るように思われます。
魔法使いが有る世界では特殊な胡散臭い存在であったりするのに対し、聖職者全体が危険視される世界というのはあまり聞きません。その一方で、邪悪な魔法使いが所詮個人営業の規模の小さい驚異でしかないのに比べ、宗教はより大きな究極の敵として邪悪な信仰を持つ一団という設定があり得ます。つまり魔法使いが魔力その物を脅威の根源とするのに対し、宗教家は組織を背景に動くと言う点が重要となります。
要するに、純粋に個人の能力だけが問われる魔法使いに対し、聖職者は組織での処し方により重きが置かれると思われます。従来のRPGでは、教団で高い地位にある者は当然のように高度な魔法を使っていましたが、これはどうも不自然に思われます。開祖が如何に徳が高く優れた法力や験力を備えていようとも、それだけでは教団は大きくなりません。そして神の力というのは本質的にそれを信じる者が増えるほど力を増す様に思われます。私の創造する世界では魔法使いと宗教家を区別しませんが、優れた魔法使いと優れた宗教家は必要とされる特性が異なります。同じで有るならばそもそも分ける意味は有りませんから。
よって神の力(神と呼べる者の有無は此処では問わない)は信者の信仰心の総計で表され、それを行使できる者が聖職者と呼ばれる人間である、と定義します。神の力は聖職者が奇跡(神の業をこう呼ぶことにします)を起こすことで、周囲の人間の信仰心を引きつけることで一時的には高まります(よってなるべくひっそりと行使すべき”魔法”と異なり、”奇跡”はなるべく多くの人間に目撃させる必要があります)が、それは宗教的熱狂に過ぎず、それを安定して維持する組織力の方がより重要となります。周囲に信者が多いほど、奇跡は起こしやすい事になり、宗教圏と言う概念が生まれます。
逆説的には神々は信者を奪い合い、地上での勢力拡大を目指します。これを表現した「神々の戦い」と言うボードゲームも有ります。此のゲームは最大の敗者の持っていた神が後々悪魔として記憶されるのだと結ばれています。神と悪魔が所詮紙一重だという考えなのでしょう。
神の起源は一つには自然に対する崇拝もしくは恐怖にある。そしてもう一つが祖先への崇拝・敬慕である。前者を自然神、後者を祖霊と呼ぶ。この段階から少し進み、集団が血縁による氏族社会から地縁による部族社会へと発展し都市文明が誕生すると地霊と呼ばれる物が生まれる。これは特定の土地を守護する神である。これは都市の住民達の共同意識によって生み出される。
集団がさらに大きくなり、都市同士の抗争・同盟が続くと、これら神々の系列化が行われ、神統譜が編まれる。これが神話の誕生である。神統譜を持つ部族の接触により系譜はより拡大していく。一つの民族が別の民族を従えたとき、同化を促進するために神統譜の接合が行われる。勝者の戴く神々が、敗者の戴く神々と血統的に結び合わされる(勝者の神々と敗者の神々の次世代が演出される)事で、両者の融合が成されるのである。習合による神々の世代交代の回数によって民族抗争の歴史が多少なりとも解析出来るのではないかと思う。
魔法世界に創造主は居ないと言ったが、一神教が存在出来ないとは言えない。では魔法世界における一神教の形態とはいかなる物であろうか。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教と続く一神教の系譜であるが、これらの共通点は崇める神を単一とし、それ以外を否定する事である。ただしそれ以外の要素に置いてはむしろ各々に異なった部分の方が多い。
ユダヤ教は民俗宗教として発生し、民族の保持を目的として他民族との差別化を徹底してきた。それ故、同化傾向の強い多神教を捨て、単一神(契約神)の崇拝に踏み切った。これはユダヤ人社会の維持には貢献したが、逆に拡散を妨げたと言える。
キリスト教はユダヤ教の一セクトとして発生し、非ユダヤ人の間に広がっていく事で世界宗教へと発展した。ユダヤの神が契約神であったが故に可能となった事である。このことは恐らくイエスの意図しない事であっただろう。イエスの活動は恐らく硬直化したユダヤ教に対する一種の宗教改革であったと思われる。
国教化により世俗権力と結びついてしまったキリスト教はユダヤ教の一セクトではは無くなった。変質した教会は”内なる敵”との抗争を余儀なくされ、神の敵としてのサタンの概念を構築するに至った。これは先行するユダヤ教にはもちろん、後発のイスラムにも存在しない概念である。
イスラームはアラブ民族の自決をスローガンとして立ち上げられた。これがアラブ人以外に広がって世界宗教へと拡大したのはイスラームの中にある重商主義的な要素にある。農業を主体とする社会は自給自足が原則で、他者を必要としないシステムを生み出すが、商業を主体とする場合、他者との接触が不可避である。イスラームは布教と征服の過程で人頭税という朝貢制度を逃げ道として残している。
人頭税を払いたくないからイスラームに改宗すると言う反応はしかし一種のジレンマを生じる。イスラームのシステムは異教徒を容認する。と言うより一定の異教徒を内包しないとシステムが破綻してしまうはずである。そして最後のイスラム帝国オスマン・トルコは領内の異教徒が自前の国家を欲したときに解体した。キリスト教徒は十字軍によってはイスラームを討ち果たせず、民族自決という思想を持ち込んでイスラーム世界を打破した。
捕捉:一神教と多神教とのどちらが優れているとか進んでいるとかはあえて問わない。問題はその形態である。多神教では推奨の形式での教えがあるが、一神教では禁止型の道徳的戒律が優位にある。祈りの拠点として多神教は神殿を持ち、一神教には教会がある。一貫した教理がない多神教の神殿は分権的だが、教会は常に教理上の整合性を巡る論争が絶えず、これを信者達へ繋ぐために管理者が存在する。神の力が顕在する魔法社会では、教会における地位もある程度は法力の優劣で決まるであろうから教会組織の腐敗は小さく、よって原理主義的な宗教改革運動は起こりえない。
なお、神殿や教会の運営に関しては様々な形態が想定されるが、大枠は所有地からの収穫と信者からの寄付が主であろう。一神教では特に裕福な物に寄付を義務づける喜捨の制度が発生するであろう。
多神教世界の構築は習合(シンクレティズム)と系統化によって説明できる。もっとも有名な例はギリシア=ローマの神々であろう。二つの民族神族は原点はギリシアの方にあったと思われるが、完全に同一化され、ローマ本来の神々の性格は消えている。あるいは初めから詳細な神話など無かったのかも知れない。
前項でも見たように、習合の仕組みは征服民に対する一種の慰撫工作であったと思われる。魔法世界の神はシンクレティズムによって力を集約される。別の名で捧げられていた”祈り”は同一化された一つの神の力に変わる。これは系統化でも同様で、古い神々の持っていた力も世代交代によって征服民の神の元へ集約されていく。
神の力は祈りを捧げる人間の数と、祈りの時間の積で求められる。これらの祈りの力は決して消滅しない。しかしこの力を引き出すの鍵は神の名前である。名が伝えられずに失われた神の力は失われずに保存される。時に遺跡や古い文献などからそのような失われた神の名が顕れて発見者に力を与える事がある。
一神教の構造は多神教とは異なる。多神教の神の力は人の意識の集合体であることは同一でも、その根元は自然崇拝や地縁・血縁に基づくので世界中のいかなる場所でもアクセス可能である。それに対し、唯一神の力は信者の居住区域にのみ存在して勢力圏を構成する。そしてその外側では力を発揮出来ない。
唯一神の力は信者達の信仰心に依存する(無論多神教の神も同様であるが、彼らには基盤となる核がある)ので、一神教の布教活動とは神の力を拡大する為に重要な手段である。そしてもう一つの重要な手段がシンクレティズムである。
他者の存在を認めない唯一神のシンクレティズムは多神教のそれとは意図を異にして悪魔化と言う形態を取る。つまり旧来の神々を悪魔として攻撃し、これをうち倒す事でその力を内部に取り込むのである。そして最初に撃ち破られるべき神々とは改宗者自身が信仰していた物である。
悪魔という概念はかなり特殊な物で、一神教でも特にキリスト教にしか存在しない。多神教では神々は力の強弱や主神の交代劇こそあれ、敗れた神が悪魔として貶められることは希である。ゾロアスター教のアーリマンは善神アフラ=マズタと対置される悪神であるが、厳然とした神であり神の敵としての悪魔との同一視は出来ない。性格的に言えば、インドのシヴァ神などは生半可な悪魔より悪魔的な性格を有しているが、ヒンドゥの三大神の一角である。
キリスト教の悪魔がこれら悪魔的な神とどこが違うのか。それにはまず彼らの敵である、神の方から見ていく必要がある。ユダヤの神ヤーウェ(間違ってエホバなどと称される事もあるが)は本来どの民族でも崇拝する天空神であったと思われる。天空神は神統譜の中で主神に列せられ、多くの神話で世代交代が見られる。これは民族の興亡の歴史と関係があると思われる。つまり有る民族が征服されると、新たな征服民の崇めていた主神が現地民の主神に取って代わる事になるが、その際に血縁関係を持たされて世襲を装わされるのだと思われる。これはある種の同化政策であり、被支配民への慰撫工作でもある。
しかし、他民族に征服された経験は有っても、征服した経験のないユダヤ民族は征服民に同化しないために独自の神統譜を持つことを選んだ。こうしてユダヤの神は他の神と一切の縁戚関係を持たない独立した神となった。
サタンとは神への反逆天使、言い換えれば身内である。キリスト教徒の立場から見てサタンとなるべき身内とは言うまでもないのだが古い戒律にしがみついているユダヤ教徒を意味する。この出発点を押さえておけば、参考文献は半ば理解したも同然である。キリスト教はまず身内=出身母体であるユダヤ教団を敵と断じて決別を図った。キリストの神性を認めないアリウス派はこの時点で排斥されねばならない。325年のニカイア信条はキリスト教がユダヤ教の一セクトであることをやめた画期である。逆に言うと、これがなければユダヤ教・キリスト教そしてイスラームはすべて同一になってしまう。そしてキリスト教がユダヤ教から分離したからこそイスラームの登場にも意味がある。この分裂がなければ、イスラームは単なるユダヤ教の復古運動に留まってしまうのである。
さてユダヤ教からの分離独立を果たしたキリスト教は今度は内部抗争に明け暮れる。内部の敵を攻撃して神学の先鋭化を図るのがキリスト教団の一種の常套手段となるのである。但し、この様な異教徒から見れば不毛な論議は主に東方教会にて行われた物で、蛮族の中に取り残された西方教会=ローマ司教座ではゲルマン土俗との習合による現実路線へと踏み出していた。ギリシア哲学を取り入れて左翼教条主義に陥った東方教会と、ゲルマン民族を取り込むために右傾化した西方教会の間には大きな隔たりが出来てしまった。東西の教理の差より、東方教会とイスラームの違いの方が遙かに小さい。「環境と文明の世界史」と言う鼎談本で石弘之氏が「かなりの左から極右まで一通りそろえてあ」って日本の自民党のようだと表現しているが、言い得て妙である。
問題となるのは魔法が実際に効果を持つ世界に置いて神学論争が成立しうるかと言う事である。どちらの論理が正しいのか実証可能であるし、そうなれば敗れた方は信仰を集められずに消滅していく。よって正統と異端の並立は起こりえない。双方が一定量の信者を保持し得た場合のみ、分裂が可能である。そして一神教の性質上、一旦分裂してしまえば二度と融合する事はないであろう。
*1 1から3のテーゼについては魔法社会学・概論にて