東西文明比較3 文明よりの脱落者 ベトナムとイギリス

 一番目の朝鮮フランス組よりも文明化の度合いは小さい。普通は島国と言うことでイギリス日本と対比させるべきところだが、此処では文化的影響力を重視した。

1 中華文明の反抗的な次女

 ベトナムは越南と書く。ベトナム語では形容詞を後ろに持ってくるらしい。彼らは古代には中国南部の越地方にいた民族群の一つであった。

 唐代にはベトナムは中華文明圏の一部であった。だが、東夷=朝鮮人とは異なり、南蛮=ベトナム人は唐の衰退の後に自立への道を選び、華夷秩序を抜け出した。その後は南進し、インドシナ半島東部に独自の勢力を維持することになる。

 ベトナム人はあのモンゴルの攻撃すら凌ぎきった。朝鮮人が結局モンゴルに屈したのとは対照的である。両者の違いと言えば、朝鮮は半島の突端で逃げ場がないのに対して、ベトナムはまだ後背地を持っていたと言う点だろうか。

 だが恐らくそれだけではない。中華文明は武より文を重んじる為、それに染まり過ぎた朝鮮は文弱に流れ、染まりきらなかったベトナムは勝負の気質が残ったのだろう。朝鮮人は徹底抗戦に関して内部の統一が出来なかったし、背後に控えていた日本との共闘もほとんど考慮されていない。

 この点は日本も同じであるが、我らには海という最強の防壁があった。陸続きのベトナム人の苦闘は鎌倉武士のそれとは単純には比較できない。彼らベトナム人は近代において再び当時最強のアメリカ軍を撃退すると言う新たな武功を成し遂げている。

2 見捨てられた末娘

 さてこれと対比されるべきはイギリスである。

 イギリス史はシーザーの渡海より始まったとはかのチャーチルの言葉であるが、ブリテン島のローマ化(即ち文明化)はそれより100年ほど後になる。ローマ帝国の完成者ハドリアヌス帝の築いた長城はそのままイングランドとスコットランドの境界に相当する。これはローマ化の進行具合と言うより長城の軍事的価値が影響しているのだろう。

 海を隔てていたこともあって、ローマ帝国の衰退期にはもっとも早くに放棄され、独自の道を歩むことになる。イギリスが再びヨーロッパ史に戻ってくるのは1066年のウィリアム征服王の渡海、いわゆるノルマン征服以後である。この英仏混交状態は100年戦争まで続く。

 イギリスは英仏海峡から二度、他にも北海を経由してバイキングの度重なる侵攻を受けており、同じ島国と言っても日本とは単純に同一化出来ない所以である。極東の島国日本を唯一占領出来たのは、西の大陸国家ではなく、東の海の彼方から来た新興の海洋国家、即ちアメリカ合衆国であった。

3 文明の通り道

 ベトナムイギリスを対比させる上で最大の問題点は第一組(朝鮮フランス)のとの関連性である。

 イギリスフランスを経由して文明化した為に、長くその影響下に置かれた。英国首相がジョークで「我が国は1066年のフランスの征服によって建国された」などと述べるくらいである。また英語はゲルマン語系で有りながら、フランス語より多くの語彙を取り入れており、強いて名付ければハイブリッド言語と呼べるだろう。ドイツ語のように規則的でも無く、フランス語のように洗練されても居ない英語が世界共通語となってしまった事は歴史の皮肉である。

 対してベトナム朝鮮とは別ルートで文明と接触したため、相互に無関係に発展を遂げた。両者の関係と言えば、ベトナム戦争に朝鮮軍が従軍して悪行を残したくらいであろう。この点でイギリスと対置されるべきはやはり日本である。

 だが朝鮮人は中華文明をそのまま伝えただけで何ら手を加えていないのに対して、イギリスに入ったローマ文明は明らかに仲介者であるフランス人の手が加わっている。イギリスにとっての文明化はローマ化と言うよりフランス化と言っていい。

 この違いは両者の地理的状況が影響している。イギリスが大陸文化を取り入れるにはフランスを介する以外に無かったのに、日本は半島ルート以外に直通ルートを持っていた。更に、日本は取り入れた文化に独自のアレンジを加えてオリジナルの文化を創り上げている。

 自前の民族文化と外来の最新文明とを程良くミックスしたのが日本であり、ドイツであった。

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