東西文明比較1 文明の源流 現代中国とイタリア

 かつての古代帝国の中心地に位置し文化の中心としての存在感はあるが、数度にわたる蛮族の蹂躙を経ているので国家としての連続性はない。但し、現代中国は古代中国時代と比較しても最大領土を得ているが、イタリアはかつてのローマ帝国の規模には遠く及ばない。

 東アジアの文化の源流は古代中国である。対して、ヨーロッパ文明の源流は古典古代と呼ばれるギリシア・ローマに遡る。だから東アジアに置ける中国と対比させるにはギリシアとイタリアをセットで取り上げるべきかも知れない。

1 古代帝国の興亡

 中国最古の文明は黄河流域ではなく長江流域に起こったと言う説もある。長江文明がギリシアで黄河文明をローマに対比させるのも一興である。

 戦国時代を経て秦の始皇帝が中国最初の皇帝となるが、その死後に衰えて漢の高祖劉邦による再統一に至る。これはローマに当てはめるとカエサル始皇帝アウグストゥス漢の高祖という対比になるだろう。付け加えれば、アントニウス覇王項羽クレオパトラ虞美人となる。

 ローマはほぼ同時期に存在した。シルクロードを通じて交渉があったかも知れないが、基本的には全く独立して存在したと見て良い。にもかかわらず、前漢時代が共和政時代、後漢時代が帝政前期の五賢帝時代まで、三国時代が帝政後期の軍人皇帝時代とほぼ対応する。これは帝国の興亡が地球環境の寒暖循環に影響されている所為である。

 寒冷期には食糧が不足するため、生き残るために階級制度が強化され大帝国が生まれやすい。それも温暖期にはいると階級制度の縛りが緩み分裂する。両帝国とも寒冷期に食糧を求めて南下してきた北方騎馬民族の侵入を受けたが、崩壊に至るのは異民族に対する統制が緩んだ温暖期になる。

2 蛮族による復古

 古代帝国崩壊の後、中国は北朝系軍閥の楊氏=隋朝によって統一され、ヨーロッパにはフランク王国という文化的継承国家が誕生した。但し、ローマ帝国の方はギリシアに東ローマ=ビザンチン帝国が健在であったので、これは中国で言えば南北朝時代が常態化したと言える。

 元々東方=オリエント地方の方が文化的経済的に優勢であったので、西ローマゲルマン民族の統制に失敗したが、東ローマの土台は揺るがなかった。とはいえ、東ローマも東方にイスラムという新興勢力の台頭を受けてローマ世界の再統一には至らなかった。

 短命に終わったに代わって登場したは東突厥の可汗も兼ねる、中国史上でも最強に近い帝国であった。ちなみに中国史上最強の帝国は満洲族のであろう。モンゴルの大元も規模は大きいが短命であった。強力な王朝はいずれも北方民族系が南下して漢民族を支配する形である。漢民族系王朝が北方民族まで包括する事例は無く、唐王朝が北方民族系であることの傍証であろう。

 唐王朝の滅亡理由はいろいろあるだろうが、直接の要因は重税に反感を抱いた塩商の反乱と言うことになるだろう。財政危機から塩税を重くして反乱を招くと言うのは中華帝国の滅亡パターンの典型となる。ともあれ、この混乱を受けて我が国は遣唐使の中止という形で華夷秩序からの脱却を果たしている。同じくベトナムもこの時期に独立を成し遂げた。

 一方のフランク王国だが、分割相続の原則に従って三分される。これ以後、この地域が統一されることは無く、それぞれがフランスドイツイタリアの原型となる。

3 モンゴルの嵐

 その後、モンゴルの大征服がユーラシア全土を揺り動かす。中国はモンゴルの支配を受けるが、ヨーロッパの中心部にはその攻撃は及ばなかった。但しその恐怖は黄禍論として残り、ヨーロッパ人の心中に深い傷を残す。

 中華文明は史上最弱の宋王朝においてその最盛期を迎える。宋学の根幹となる思想は「中華思想」であり、それを端的に表したのが尊皇攘夷である。宋学のもたらす毒については別稿に触れたので繰り返さない。宋学を下敷きにした「正史」は王朝の正統性を貫くために非常に苦しい説明を繰り返している。王朝交代が繰り返される中で、すべてが正しく継承される事などあり得ないのだが。中国はモンゴル=元朝の支配を経て華夷統合の第三期を迎える。

 ローマ直系のイタリアは世俗の皇帝権力と宗教的な教皇権力との綱引きが行われ、統一を妨げられた。イタリアはルネッサンスを通じて文化的には復古を遂げるが、二度と政治的な中心にはならない。むしろ周辺列強の草刈り場となる。マキャベリズムはそんな政治風土の中で生まれた。

 

 イタリアも、中国も、古代帝国崩壊後は異民族との戦争(戦闘ではない)に勝ったことがない。これは有る意味で文明国家の宿命とも言える。端的に言えば、知性派と肉体派がケンカすれば肉体派が勝つに決まっているのだ。

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