悲劇の日韓関係史 1 分離と分岐

 

1 日本国の起源と半島との分離

 日本国は三度に渡る対外戦争の敗北のたびに、その勝者の国家制度を取り入れて発展してきた。(この辺りの考え方は旧稿・外圧と歴史の転換でも述べています)一度目の敗戦は白村江の戦いであり、この敗戦が日本誕生のきっかけとなった。この時に取り入れたのが律令制である。そして二度目が秀吉の唐入り、いわゆる朝鮮の役である。この時は儒教を取り入れた江戸幕府の誕生へと進む。三度目が太平洋戦争で、アメリカの民主主義を取り入れている。但し、いずれの時にも勝者の国家制度を自己流に咀嚼している。例えば律令体制では易姓革命を拒絶して万世一系という日本独自の制度を確立している。

 さて日本国大唐帝国よりの外圧から誕生したが、建国事業の一環として編纂された「日本書紀」ではその事実を書くことは出来ない。そこで恐らくは只の宮廷クーデターであったであろう乙巳の変が”改新”の始まりとされたのであろう。(そう考えると、この時討たれた蘇我入鹿は倭国王であったと考えるのが妥当と思われる。よって皇極女帝も大王ではなくその王妃であろう)

 列島に統一国家が誕生するのと前後して半島にも新羅による初の統一国家が生まれた。列島半島は客観的に見てほぼ同じ長さの歴史を持つと考えて良かろう。少なくともこの両地方の歴史が中国より長いなどと言うことはあり得ない。歴史というのは東洋では中国で、西洋ではギリシアで発見された文化概念なのである。だがこの統一新羅は大陸との陸続きであった半島国家の宿命から唐の属国と成らざるを得なくなった。中国の文化を全面的に取り入れた半島取捨選択した列島との違いはこの地政学上の理由による。

 半島史を見てゆくと、野党が外部勢力を引き入れて政権を奪取しようと言う動きが目立つ。その端緒がと結んで百済・高句麗を討った新羅に見ることが出来る。三韓が同族だとすれば新羅は民族の裏切り者という非難は免れないであろう。以下はあくまでも私見だが、高句麗は満州系で百済は言語的・文化的にも列島民との近親関係が感じられる。(白村江における無理な軍事介入もそれで説明が付く。そして現在の韓民族に繋がるのが新羅系の住民であり、逆に言うと新羅による統一より韓民族の範疇が確定した様に感じる。今に続く全羅道(旧百済)と慶尚道(旧新羅)の対立も只の地域対立ではなく、民族対立ではないか?

2 冊封体制の内と外

 さて、唐新羅連合に敗れた結果誕生した日本国であるが、戦勝国である新羅の対立により国難は回避された。この辺りは太平洋戦争後の東西冷戦構造と対比出来るかも知れない。唐は伝統的な遠交近攻策に従って新羅を挟撃するために日本との協定を持ちかけてきた。日本がこれに乗って新羅を滅ぼしていたら次には日本自体の独立も危うかったであろうが、日本は壬申の乱を経て親百済(つまり半新羅)から親新羅へと方向転換した。半島に統一政権がある時期は列島は大陸からの軍事的脅威を回避出来ると言うのはこの先長く続く地政学上の常識となる。

 ともあれ、半島列島は統一国家誕生時点では大唐帝国の華夷秩序の中に有った。だが、列島半島では大陸に対して明確な温度差があった。陸続きの半島は、軍事的な敗北は避けられたモノの、文化的な同化からは逃れられなかった。だが遣唐使によって行われた列島への文化流入には取捨選択が働き、文化的な影響力は自ずと抑制されていた。そして唐が弱体化した時には、これを廃止(894年)することでこの体制からの離脱が可能であった。

 程なくして唐王朝が滅亡する(907年)と半島の情勢も変化する。大陸の影響力の後退に伴ってその空白地に高麗国が誕生し(918年)やがて新羅に代わって半島の統一国家となる(935年)。それより少し前に旧高句麗領域にあった渤海が滅亡し(927年)、その遺民が高麗へ流れ込んでいる。三国時代からの流れからすれば、これは朝鮮民族の後退と映るが、統一新羅を半島国家の起点と見れば北方への拡大とも解釈出来る。確実なのは高麗王朝の勢力圏が新羅時代より北へ広がったと言うことである。

 高麗によって新羅が滅ぼされたその年、列島では平将門の乱が始まっている。しかし日本の王朝文化の爛熟期はこの後に訪れる。

3 宋学の害毒

 儒教を国の根幹に据えた高麗は、大陸に倣った科挙制度を創設した。これが半島と列島の最大の分岐点であっただろう。日本が儒教を採用するのは遙か後年、徳川幕府の時代であるが、科挙については遂に採用されなかった。

 高麗の科挙制度はしかし、本家に比べて不完全であった。大陸における本来の科挙は少なくとも身分制度を否定する(出自より儒教への理解度を基準とする)モノであったが、半島のそれは両班と呼ばれる身分制度を生み出してしまった。この点の是非についてはここでは論じないが、半島が大陸文明を全て無条件で受け入れた訳でないことが解る。

 これと前後して大陸に漸く統一勢力が誕生した。である。文化水準では最高位、逆に軍事分野では最低と言われる宋王朝(960年建国)である。宋代に完成した儒教が宋学である。これは恐ろしく破壊力のある思想であった。日本に限ってみても、後醍醐天皇に取り憑いて鎌倉幕府を打ち倒さしめ、返す刀で天皇家の権威失墜をもたらした。また、江戸幕府の末期にも幕府攻撃の格好の旗印となった。

 儒教は孝を機軸に据えるため、必然的に保守的な思想に成らざるを得ないのであるが、それに加えて宋学には武を軽視する傾向が強かった。井沢元彦氏は著作の中でこれを「インテリのヒステリー」と呼んでいる。言い換えれば力で勝てないインテリの負け惜しみなのである。この宋学の毒に冒された国家は近代化に向けた改革を阻害される。改革は儒教が強く戒める”父祖への不孝”になるからである。

 新たな中華である宋朝に朝貢を始めた高麗王朝は必然的にこの宋学の毒をもろに取り込んだと思われる。その害は次の李氏朝鮮にまでおよぶ。一方の日本では主に東国を中心にして武士勢力の台頭が始まっていた。

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