悲劇の日韓関係史 2 抗争と紛争

 

4 軍事政権の時代

 日本における最初の軍事政権は、異論はあるかも知れないが、平氏政権であろう。これは武士階級全ての利益を代表するモノでなかったため源氏の鎌倉政権に取って代わられる。半島にもこれと類似する政権が存在した。崔氏四代に始まる武臣政権(1196年〜1270年)である。崔氏は都房という私兵組織に加え、三別抄*1という公兵組織も創設した。

*1 盗賊の取り締まりを目的とした警察で最初は夜別抄といった。これが後に人数が増えて左別抄・右別抄の二体編成となり、江華遷都後に元軍の捕虜から逃れた者によって編成された神義軍を加えた三隊編成となる。

 武臣の叛乱から崔忠献の政権奪取までの過程は源平合戦にも比定されるのではないか。(実は今回調べてみるまで全く知らなかった)源平合戦では叛乱勢力である源氏が勝ったが、崔氏政権は体制側なので平家に相当すると考えられる。充分な奥行きのない半島では独立出来るほどの地方勢力が育たなかったのであろう。半島はその手頃な大きさから、本家ですら不可能だった強固な中央集権体制を実現している。よってこの先の半島国家は外部からの圧力でしか崩壊しない。

 この時期にこうした軍事政権が誕生したのは、半島と列島では背景に多少の違いはあるだろうが、硬直化した寡頭政体への反発がその根底にあると思われる。食料生産が安定していた温暖期には内在していた不満が、寒冷期に入って爆発した結果でもある。だが、寒冷化は北方から新たな脅威を生み出すことになる。

5 モンゴル襲来

 半島の武臣政権はしかし不幸にもモンゴルの勃興期と重なっていた。いやこれは前項でも見た様に寒冷化による影響であったのだ。問題は武臣政権が軍事政権であるが故にモンゴルとの妥協が出来なかったのであろう。その点は北条得宗政権も同様であった。

 両政権の違いはユーラシアの中心(地政学に言うハートランド)からの距離の違いのみであったであろうか。半島ではお得意の内部抗争から権益を奪われていた高麗王家と文臣達の裏切り(王政復古。1270年)が起き武臣政権は終わりを告げた。権臣の走狗として王政復古に寄与した三別抄であったが、復権した元宗が解体を企図したために叛乱を起こす。これが抗蒙民族運動とされるのは、手を焼いた高麗王朝が宗主国=大元に支援を求めたからではないだろうか。内部抗争の手段として外国の軍隊を引き込むのは彼らの常套手段である。三別抄も日本に支援を要請しているが、応じなくて正解であろう。

 半島における三別抄の乱モンゴルの列島侵攻を遅らせたのは事実かも知れない。しかし、遅れたから列島側が有利になったと言うことはないし、直接の勝因でもない。列島が大陸の猛威から逃れたのはひとつには自然条件(海という防壁と”神風”)があった。だが最大の要因は列島が一致団結して外敵に当たった事であろう。列島には半島と違って外部勢力(この場合はモンゴル)を利用して復権を図ろうという不届きな勢力*2は存在しなかったのである。そして大元帝国の脅威はむしろ北条得宗家による集権体制を強化する結果となった。

 *2 柘植久慶著「逆撃」シリーズの蒙古襲来篇にてこれをやっている。主人公は北条に敗れた三浦一族の一員として北条への報復を戦いの目的とするのである。例によって歴史改変そのものは成功しないのだが、参加目的は達成したと言えるかも知れない。しかし、軍事的にはともかく、政治的には問題有りすぎです。

 第三次遠征が行われなかった最大の理由は大陸の政治情勢の変化、すなわちモンゴルの内乱にあった。これはモンゴルが巨大に成りすぎた所為でもある。言い換えれば攻勢限界を超えたと言うことである。恐らく、モンゴルが日本を征服しても、さほど長くは維持出来なかったであろう。あの大陸軍国が海を越えて領土を維持出来たとは思えない。

6 明の海禁と倭寇

 大元は漢民族の叛乱により北へ追われ代わりに明が建国された(1368年朱元璋皇帝即位)。それに先立って列島では中央集権的な北条政権が倒れ(1333年)、地方分権的な足利幕府が新たに京都に開かれた(1338年)。そして半島でも高麗朝の権臣李成桂が旧王家を廃して朝鮮王国を立てた(1392年)。それにしても半島における李氏王朝の誕生列島の南北朝合一が同じ年というのも奇妙な偶然である。

 朱子学を採用した明は農本抑商主義と自給自足体制の観点から海禁政策を打ちだした。明の海禁政策は後の徳川幕府の鎖国政策とは異なる。海禁は貿易の全面停止であるの対して、鎖国は自由貿易の統制言い換えると独占貿易である。朱子学を生み出した宋代ですら海外交易から上がる利益を否定しなかったのだから、これはまさに自家中毒の極みであろう。

 海禁制策は大陸沿岸における密貿易を盛んにし倭寇が跋扈した。倭寇と言うのは民間の貿易商人(=海賊)である。よって力のある国家が取り締まりに臨めば充分に駆逐出来るモノである。いやそれ以前に、貿易を禁止しなければ力ずくで奪うなどと言う事をしなくても良かった。商業を悪と考える朱子学的な発想が彼らを海賊行為に走らせたと言える。

 倭寇は三島(対馬・壱岐・五島辺り)の非定住民の「経済活動」が元になったらしい。その活動範囲も初めは半島南部に限られていた。倭寇が攻撃性を増したのは元麗連合軍の襲来への報復と見られているが、戦争によって三島民達の経済活動が阻害されたことが原因ではないか。

 そこにやがて半島の被差別民が加わって次第に変質していく。高麗朝の権臣李成桂は倭寇討伐で名を挙げてやがて簒奪に至る。これは外圧によって半島の政治情勢が変化した一例であろう。倭寇の活動範囲はやがて半島全体から大陸沿岸へと拡大していく。

 勘合貿易を開始した足利義満の時代など、強力な権力者が出現して倭寇取り締まりに一定の効果を上げることもあるが、明の海禁政策が改まらない限り根本的な解決はあり得ない。海運によって生計を立てている人々にとっては死活問題なのである。儒教に染まり農業を国の根本として見る明や朝鮮にはそれが理解出来ない。

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