悲劇の日韓関係史 3 不信と通信

7 義満と秀吉 対照的な権力者

 列島が戦国乱世に突入すると、もはや倭寇を取り締まる権力は存在しない。この時代の”日本国王”は細川氏から大内氏へと代わる。その大内氏が内訌で滅んだ後、日本国王印は毛利氏のものになったと思うのだが、だとすれば信長の毛利征伐には対外的な意味合いが加わると思う。

 それはともかく、話を日韓関係に絞ると、義満から一気に秀吉まで飛ぶことになる。秀吉は義満以来最大の権力者であり、共に日本全土を巻込んだ争乱を収めた平和の作り手であるが、それ以外の点では全くと言って良いほど共通点が無い。それは言うまでもなく両者の出自に起因する。義満が貴種であり”生まれながらの将軍”であるのに対して、秀吉は卑賤の生まれ、日本史上空前絶後の出世男である。

 日本史における秀吉の功績はなんと言っても戦乱を終息させたことである。戦国時代の起点を何処に置くかと言う点には色々と意見も有るだろうが、ここではそれについては触れない。秀吉のもたらした平和は総無事令に集約される。これは義満による南北朝合一に比肩する大事業であった。

 義満が天皇簒奪へとその野望を膨らませたのに対して、秀吉は権力確立のために天皇を利用せざるを得なかった。結果、義満は自ら望んで”日本国王”となって倭寇の取り締まりに奔走し、秀吉は明の冊封を蹴って最大の倭寇の親玉として悪名を残す。

8 朝鮮征伐か壬辰倭乱か 四百年の恨

 秀吉の唐入りは侵略行為である。これは否定しようのない事実であるが、この時代は侵略則悪ではないと言う点も同時に抑えておかなければならないであろう。そして世界史における英雄の条件は侵略の成功にあるとするならば、秀吉は英雄になり損ねた男である。

 唐入りは本来の目的を完遂出来なかった。文禄の役における彼の目標は明へ攻め込むことであったはずなのに、途中の半島で足止めを喰って肝心の明本国へは一歩も踏み込むことが出来なかったのである。半島民にとって不幸なのは、日中両国が戦争を行う際には必然的に半島がその主戦場となってしまうと言う点であろう。

 唐入りは第一次日中戦争と言うべきであろう。第二次が日清戦争であり、いわゆる日中戦争は第三次と言うことになる。列島軍大陸軍の激突という点ではそれ以前にも白村江と元寇があるが、前者は新羅と百済という半島国家への支援という側面があり、元寇にも半島の高麗軍の存在がある。

 策もなく全国統一の勢いをそのままに大陸へとなだれ込んだ秀吉の大陸侵攻は当然に失敗に終った。だが秀吉より遙かに動員力の小さい満洲族が明の征服に成功した事を考えると、事の是非を抜きにすれば充分に勝ち目のあった戦争だと思う。

 さて国土を荒らされた朝鮮は一方的な被害者であるのか。いや彼らにも問題は多々ある。まず秀吉の本気を見抜けなかったこと、それ故何ら事前の対策を取らなかったこと、その理由が内部の派閥争いであると言うから実にお粗末である。自国防衛に全く気を配らずに宗主国任せ、と書くとまるで現代のどこかの国のようで他人事とは思えない。

 それにしても、朝鮮軍は余りにも呆気なく敗れたため明から内通の疑いを掛けられたほどであった。そして何よりも朝鮮の一般民衆はむしろ日本軍を解放者として歓迎したらしい。この同じ王朝が三百年の後、再び列島からの侵略を受けてしまうのだから、半島には反省とか進歩とか言うモノは無いのであろう。

9 唐入りの余波と事後処理

 第一日中戦争は長期的に見ると当事者双方の滅亡という結果を招いた。列島の覇者豊臣家は家臣団の亀裂を家康に利用されて滅んだ。大陸の王者明は嵩んだ軍事費用のつけ押しつけられた民衆の叛乱により滅んだ。しかしながら戦場となった半島の小国朝鮮は何故か生き残った。奇妙な表現になるが、侵略慣れした半島民満洲族の侵攻(彼らの言うところの丁卯胡乱)もうまくやり過ごした。

 しかし、戦場となった半島が無傷であった筈がない。この時の被害は「今に至るまで朝鮮の発展を阻害した」と半島民は主張する。李朝滅亡まで三百年、彼らは復興のための手段を何ら講じなかったのであろうか。同時期の列島は”鎖国”による停滞期であったとされるが、その一方で明治期の爆発的な経済発展の基礎を作ったという評価もある。

 思うに、半島の発展を阻害したのは”壬辰倭乱”の直接的被害ではなく、”丁卯胡乱”の間接的被害が大きいのであろう。朝鮮はそれまでの漢族の明帝国に代わって新たに満洲族の清帝国を宗主国として仰ぐことになった。この蛮族に対する朝鮮の対応は面従腹背であり、この時期の彼らは自分たちこそが真の中華であるという過剰な自意識を抱くに至った。彼らは宋学を本家以上に重要視した。要するに毒を皿まで食らってしまったのである。

 さて一方の列島であるが、豊臣政権を覆した徳川家は内乱の火種となりうる旧主家を敢えて滅亡に追いやった。その天下取りの過程についての考察は以前の稿で行っているのでここでは繰り返さない。豊臣家の処理はあくまでも国内問題であって日朝講和の前提条件ではないが、江戸期を通じての良好な日朝関係の基盤となったこともまた事実であろう。

 対馬・宗氏は唐入りの戦犯であるが、半島との国交回復を目指す家康の安堵を受けて奔走した。宗氏はこの困難な任務に辺りまたしても(秀吉のときにも両国の衝突を避けようとして行ったらしい)国書の偽造を行ったらしい。

 半島国家・朝鮮大陸国家・清に外交的に従属している(事大という)ので列島・江戸幕府との対等外交は出来ない。そこで江戸期を通しての両国は通信と言う名称で外交関係を結んだ。列島民はこれも文化貢献と考えている節があるが、この時期の日本にとって半島から学ぶべきモノは特にない。江戸の庶民は珍しい見せ物として見たことであろう。

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