”関ヶ原”の意味

1 織豊重商主義と徳川重農主義

 このテーマは関ヶ原の合戦が後の世に与えた影響を考察する物です。関ヶ原の結果が日本のその後の進路を決定した画期であったことは間違い有りません。一つだけ言えるのは徳川の勝利は歴史の必然では無かったと言う点です。

 まずは関ヶ原の合戦に至る経緯から話を進めましょう。

 この合戦は豊臣の天下を奪おうとする徳川家康と、それを維持しようとする石田以下の豊臣官僚達の確執に端を発しています。しかし対立軸はそれだけではありません。

 一つには織豊重商主義体制と、徳川重農主義体制の選択があります。前者は最終的には秦の始皇帝が行った郡県制に近い体制を指向し、後者は周以来の伝統である封建制を維持しようとしていました。但し、信長の横死によって成り行きで誕生した豊臣政権はその準備不足から致命的な弱点を有していました。諸大名の懐柔のために恩賞をばらまきすぎたために中央の統制力が弱いと言うことです。関ヶ原は、その不完全な体制をより強固にする意味でも必要でした。よって、石田三成の暴発が結果として徳川に利する形になったのは決して必然ではありません。

 三成が郡県制を指向したと言う物的証拠はありませんが、状況証拠なら提示できます。彼は「九州で百万国やろう」と言う太閤の恩賞を断って、中央に居続ける方を望みました。戦略・戦術的言えば貰っておくべきだったでしょう。しかし政略的には明らかにマイナスです。その状態で勝った場合、信長の後を継いだ秀吉の轍を踏むだけに成ります。この事例は秀吉の現実主義と三成の理想主義の差違と見られますが、むしろこのような政略的意味が大きいと思います。

 家康は三成の態度を(わざと?)曲解して、自分の体制に流用しました。つまり権力の中枢に居る者には禄を薄くし、そうでない者には禄を高くすると言う幕藩体制の基本理念です。そして徳川体制はその点ではより徹底していました。謀臣本多正純はたった15万国(しかも首府江戸にほど近い宇都宮)を獲たが為に悲運を見ました。これはあの三成の石高よりも小さかったのに。言い換えればこれだけ有れば十分”天下に喧嘩を売れる”と見られたのでしょう。

 さて三成が勝ったとして、彼が望むような体制が出来たでしょうか。残念ながら否です。徳川家を除いたとしてもその分毛利、上杉が巨大化します。唯一の可能性は、この両者が関ヶ原本戦に不在という点です。家康とそれに与した豊臣恩顧の武断派大名を粛正し、自己の権力基盤を強化した上で、この両大老の力を削ぐことが出来れば、有る程度の体制は作れるでしょう。しかしそれでも完全な郡県制にはほど遠いのですが。

 この当時急速に貨幣経済が発展しつつありました。家康はこれに制動を掛ける(これが家光時代に鎖国に至る)ことで辛うじて重農主義を維持しましたが、それは江戸期にもじわじわと進行し、ついには幕藩体制を内から腐敗させて行ったのです。織豊体制の確立により起こるはずだった重商主義体制への移行は家康の制動により260年も遅れて、明治維新に至ってようやく成立したのです。

 

 

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