”関ヶ原”の意味
2 西軍の怨念が生んだ明治維新
明治維新の時、その立て役者となった薩長はいずれも関ヶ原の西軍、すなわち負け組だした。この事から明治維新が関ヶ原の復讐だったと言うのはよく聞かれる論です。長州・毛利家では新年の挨拶で慣例のように倒幕の決意を促すと言う儀式を続けていたという伝説があります。薩摩・島津家は豊臣秀頼とその遺児を匿ったと言う噂を故意に広めた疑いが濃厚です。薩長の意図はどうあれ、明治維新が関ヶ原の戦後処理に端を発しているのは疑い得ないでしょう。
毛利家は、関ヶ原以前には中国(支那にあらず*)に120万国と言う大封を得る大大名でした。毛利家が石田三成の扇動に乗らずとも、いずれは徳川の矛先が向くのは確実でした。しかし毛利家が直接天下に号令を掛ける位置に着くのは現実的ではありません。取りうる手としては徳川家をうち倒して豊臣政権内での主導権を獲得するのが精々であったでしょう。毛利家が天下取りに打って出れなかった最大の要因は、毛利家内部の旧い体質にあったと思われます。つまり土着の国人衆の勢力が強く兵農分離が十分進んでいなかった点です。
* 余談ですが、私は幼少の頃、秀吉の中国大返しについて、大陸の中国だと勘違いしていました。その点からも大陸の中国は支那と書くべきであると主張したいです。
世に名高い太閤検地において、旧族大名達は一様に豊臣政権の介入を受けたが、その数少ない例外が西の毛利家、東の徳川家でした。この二家の領内には豊家の蔵入地が設けられていません。しかし徳川家が一度、江戸への転封によって家臣団が土地から切り離されたのに比べ、毛利家は自らの手で切り取った領地を離れることなく豊臣家に服属した為に毛利家の旧い体質が維持されていました。
関ヶ原の後、毛利家は防長二国へ押し込まれました。この二国は本来毛利宗家の領地でなく、分家の毛利秀元の領地でした。秀元家は防長の中で長府五万石を与えられましたが、享保年間に無嗣断絶しています。また、毛利減封の原因となったと思われた吉川家は同じく防長の中で岩国六万石を受けます。防長二ヶ国は本来はこの吉川家に与えられたモノで、元春の必死の工作でこれが宗家の領地として認められたモノだったのですが、吉川家は江戸期を通じて宗家から陪臣扱いされ、大名として認められませんでした。
ともあれ毛利家は、初めて転封を経験した。皮肉にも、関ヶ原の敗戦処理が毛利家の体質改善に繋がったといえます。無論、これに失敗して内部崩壊する可能性もかなりあったのですが。その意味で輝元の政治的手腕は充分に程度評価出来ます。
家康はこの時重大なミスを犯したと思われます。減封は良いとしても、要衝である赤間ヶ関(下関)を毛利家に残した点が問題です。この地は天領にして遠国奉行を置くか、少なくとも譜代大名に管理させるべきだったのではないでしょうか。この辺が徳川重農主義政策の限界を示しているとも言えます。居城にしても海沿いの萩でなく、毛利家が望んでいた、内陸の山口を認めた方が良かった。大幅に農地を失った毛利家が結果として重商主義的な領国経営に向かうのは有る意味で必然でした。徳川が江戸転封で領地を増やし重農主義を強めたのとは対照的です。秀吉の家康封じ込めは有る意味では成功したのかも知れません。
一方島津家は、関ヶ原では何も失わいませんでした。西軍に参加した維新入道・島津義弘はそもそも島津家の当主ではありませんでした。この時の当主は彼の実子にして長兄義久の養子となっていた忠恒(家久)であり、実権はその義久が今だ握っていたのです。彼がもう少し兵力を持っていれば、軍議での発言力も強まり、結果西軍に勝利をもたらせたかも知れないのですが、それは仮定の話としましょう。西軍に肩入れしなかった所為で島津家は兵力を温存しており、また家康も遠い九州へ兵を送り込む自信がなかったのことから、島津家は西軍で唯一の所領安堵を勝ち取りました。
島津家の躍進はむしろこの関ヶ原以降に顕著です。その際足るモノが家康の裁可によって実行された琉球入りです。これは秀吉の唐入りの失敗を教訓とした、より洗練されたやり方でした。征夷大将軍の分を弁えた家康は中華皇帝等という誇大妄想を抱かなかった分、秀吉より現実的であったと言えます。しかし島津に琉球を与えたことがやはり後々響いてくるのです。結果的に密貿易による富の蓄積を島津家に許してしまった訳で、これがなければ島津家の財政は幕府より先に破綻していたでしょう。
明治政府を動かす藩閥の残り土肥であるが、これは並べて説明します。この二家は関ヶ原に置ける対応が好対照でした。土佐の領主は長宗我部家、そして肥前佐賀の領主は鍋島家(より正確にはその主家龍造寺家がまだ健在であったが)です。共に領国の位置関係もあって西方に加わって参戦しましたが、戦国を生き抜いた老練な直茂が存命であった鍋島家はいつの間にか兵を引いていたのに比べ、同じく戦国の生き残り元親がを直前に失って後を継いだばかりの若き盛親はその引き際を誤りました。しかも関ヶ原まで出向きながら本戦に加わることが出来ず、事後交渉もしくじったのです。結果、鍋島家は幕末まで生き残り、長宗我部は大坂の陣で完全に滅びました。西軍に着いて改易になりながら後に旧領に返り咲いた立花宗茂の例もあるのだから、この時徳川に着いて参戦すれば家名の再興も十分ありえたと思うのですが。
長宗我部の遺臣達が江戸期に下士として新領主山内家に手ひどく扱われたことが、幕末において土佐脱藩浪士の過激な活躍を生みました。一方、徳川にすり寄る事に成功し、佐賀の領主権を確保した鍋島家は「葉隠れ」という超保守主義思想を生みだし、維新の回天には却って出遅れます。佐賀が多くの人材を新政府に送り込めたのは、この出遅れから有為な人材を損なわなかったからでもあるので、世の中何がどう転ぶか分からないものです。