”関ヶ原”の意味3 小さな政府・江戸幕府

 徳川幕府の政策上の欠点をあれこれ述べてきましたが、勿論悪い点ばかりではありません。その制度上には見るべき点が多々あります。それを一言で表現したのが、表題に挙げた小さな政府としての江戸幕府論です。

 江戸幕府の構造は単なる停戦協定であると言っていいでしょう。秀吉の総無事令を更に強固に確立したのが元和偃武体制です。これを論じると少なくとも大坂の陣まで範疇を広げなければ成らないのでこれ以上は触れませんが、徳川の平和とはつまり下克上の停止であったと言う点だけ述べておきます。

 このような世界でも例を見ない、理想的な小さな政府が出来たのは家康の意図が半分、後の半分は偶然の産物でした。この比率の取り方は人それぞれでしょうが。一つの要因は家康が老齢で天下を握ったと言う点にあります。つまり自分の手で総てを完遂できなかった事が微妙に作用しています。

 彼にもっと余命があったなら、外様大名をもっと追いつめて強固な政権が作られたでしょうが、その分中央政府たる幕府は巨大な物に成らざるを得ません。最小限の機構だけを持って、後は地方行政府てある大名の裁量に任せる。と言うのが幕藩体制の要点の一つです。更に、「民間で出来ることは民間に任せる」と言う、今の小泉総理の唱える題目のような体制が現実に機能していたのが江戸幕府です。そのまま移植することは出来ないでしょうが、参考にすべき点も多々あると思います。

関連稿 自由と平等の相克3 地方分権と中央集権

 最高法規をそのままにして置いて、解釈のレベルで現実との整合性を取るという手法も、戦後の物ではなく古くからの日本の伝統です。今は日本国憲法がありますが、その当時は律令がありました。旧い律令は既に有名無実になっていましたが、それにいっさい手をつけずに、”格”という部分改正と”式”という施行細目によって現実との整合性を取っていたのです。この律令体制が完全に消滅するのは明治維新まで待たねば成りませんでした。

 徳川家が天皇家をしのげなかったのは日本人の法に対する観念の現れと言えます。日本では法の発行元が天皇である為、天皇家を排斥することが出来ませんでした。幕府が朝廷に対して発布した”禁中並びに公家諸法度”は結局現状の追認でしかなく、天皇権威を封じ込めるには至りませんでした。日本には孟子の禅譲放伐の理念が根付かなかったので、天皇に付随する権威を引きはがして身に纏うことも叶いません。

 江戸幕府の中央集権化が不徹底だったもう一つの理由が、豊臣家の存在にあります。関ヶ原の勝利は即徳川の天下を意味しません。その意味で関ヶ原を”天下分け目”と評価するのは不当かも知れません。徳川と対峙するのが石田ではやや小物過ぎますし。また家康の征夷大将軍への任官もまだ徳川政権の誕生には繋がりません。徳川を源氏の長者とするのは秀吉の生前からの認識ですし、格式では関白の方が将軍より数段上です。主従逆転は制度の上では秀頼が襲うべきであった関白の空位が家康の策動で埋められた時、一般認識の上では二条城で家康と秀頼が対面した時だと思います。

 後一点、いわゆる鎖国政策についてですが、この用語に否定的な論調も多く見ました。この論議は貿易統制としての”鎖国”政策と、人口流動の観点から見た”鎖国”体制とが混乱している様に思えます。

 貿易は幕府の管理下で行われているので、政策上の鎖国は有りません。しかし人口の流動は止められているので、体制としては鎖国状態と言って良いでしょう。人も物もいっさいが行き来しなかった平安時代の第一次”鎖国”時代に比べれば、甘い制度だと思います。とは言えまあ平安時代には交流が制度の上で禁止にされたわけではありません。ただその時代には民間レベルでの交流は技術的に不可能であったのですが。

 

 前に戻る

 コラムトップに戻る