自由と平等の相克
3 地方分権と中央集権
話のきっかけは忘れましたが、友人OKと話していて出たのが、「インターネットを利用した完全民主制」についてでした。話の骨子は、国会議員なんかいらない。議決が必要な場合はネットによる国民投票に駆ければいいのだと、言う物でした。情報管理に対する配慮は必要でしょうが、確かに技術的には十分にクリアされていると思います。
「其処まで持って行くには取り敢えず政党を作って政権を執らなきゃ成らないよ」
「じゃあ、此処に居る面子で政党でも作ろうか」
「じゃあ党名はインターネッ党だ」
政党旗揚げの話は今回の本義ではないのでこれ以上触れません。何を話したいかというと、政治体制という物には本来優劣など無く、その時代の必要条件と十分条件によって規定される物だと言う事です。
政治体制は意思決定者の数によって独裁制・寡頭制・民主制とに別れます。平和な時代には多くの意見を集約した民主制こそが好ましいと思われますが、戦時とか緊急時には意思決定のシステムを簡素化する必要から、独裁制へと流れる事が多々あります。それが必要条件です。
では十分条件というのは何によって決まるかと言えば、技術や文化の水準ということになるでしょう。これが端的に現れたのが中央集権と地方分権の対立だと思います。(やっとタイトルに辿り着きました)
規模の小さな内は中央集権から始まりますが、社会・国家の規模の拡大と共に一極集中では統治が追いつかなくなり、中心がぼやけ、権力が分散します。これを解消する策として周代において封建制が発生しました。西のローマ帝国では皇帝を複数置いて対応しようとしましたが、これは結果として国家の分裂を引き起こします。理由はいくつか有りますが、国民の均質性の差でしょう。ローマ帝国は地理的要因から、文化や経済に置ける東西の差が大きすぎました。西は蛮族の流入を止められず現在に見られるヨーロッパ社会の原型を形成する事になります。
封建主義という用語が封建制時代には存在せず、その崩壊後に民主主義者によって作り出された架空の概念である。というのは呉智英氏の著作で書かれました。封建制というのは形態を分析すると地方分権体制です。ではこれに対抗する中央集権体制はと言うと、郡県制と言う事になります。封建制と郡県制の対立は隣の老大国では二千年以上前に発生しています。秦の始皇帝が周代以来の封建制を廃止し、中央集権的な郡県制を実施しました。この実験は失敗でしたが、中央集権体制その物が否定された訳ではありません。要するに中央集権体制を確立するには早過ぎたのです。
不足していたのは優秀な官僚群の育成システムでした。後に科挙という制度が生まれ、その条件が整うのですが、完全な郡県体制は遂に成立しませんでした。しかし老大国の直ぐ側に中央集権を確立した国が有りました。明治日本も勿論そうなんですが、その間につきだした半島の事です。この国を中華帝国の一部と見る考え方も有りますが、中央の王朝が交代しても体制を維持した事からみて、独立した国家とするべきでしょう。
半島のこの国は、しかし、封建制を通過せずにいきなり中央集権を実現してしまったため、様々な弊害をも抱えていました。彼らは急ぎすぎたと言えるかも知れません。日本が丁度良かったかどうかは分かりませんが、ぎりぎりで間に合ったと言うところでしょうか。
今回は、地方分権に基づく封建制がまだ古びていないと言う点だけご理解いただければ良いかとおもいます。それにしても今回は地味ですね。いや色の話です…。
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