婆娑羅編

元弘元年

五月 後醍醐帝の倒幕計画発覚。(元弘の変)(婆娑羅)

夏 後醍醐帝、御謀反に失敗し笠置に落ち延びる。柳生中坊、天皇と楠木正成を引き合わせ、後にその功で柳生の庄への帰還を果たし旧名・播磨守永珍に復す。(忍法創世記)

09/11 楠木正成が天皇方として赤坂城に挙兵する。伊賀の服部半阿弥、姻戚関係からこれに呼応して参加。(忍法創世記)

九月 笠置落城し、後醍醐帝は京に連れ戻される。(婆娑羅)

10/21 赤坂城が陥落し、楠木正成は脱出する。

元弘二年

二月末 後醍醐帝、島へ伴う三人の妾を決めるため、立川流の秘儀を行う。佐々木道誉と北条仲時、役に加わる。(婆娑羅)

03/07 後醍醐帝、流刑地隠岐島へ出発。佐々木道誉、千五百の兵でこの道中を警護。(婆娑羅)

4月頃 道誉、足利高氏・直義兄弟と会い、天皇の帰還を予言する。(婆娑羅)

六月半ば 道誉、鎌倉へ召喚される。同行者・北畠中納言具行を領内にて始末し、口を塞ぐと同時に自分への嫌疑も晴らす。(婆娑羅)

年末 大塔宮と楠木正成、潜伏地吉野を出て再び活動を開始する。(婆娑羅)

元弘三年

二月 後醍醐帝、隠岐を脱出。(婆娑羅)

四月末 幕府軍西上。(婆娑羅)

05/07 幕府軍の中にいた足利高氏、寝返って六波羅を攻撃。道誉、一族時氏と図り敗走中の探題北条仲時を野伏に討たせる。(婆娑羅)

05/22 新田義貞、鎌倉を落とす。(婆娑羅)

06/05 後醍醐、京に帰還。道誉、足利直義に「魔帝還る」とささやく。(婆娑羅)

建武元年

01/29 「建武」と改元し、天皇親政のための新人事が始る。(新暦1334/03/05)

夏 道誉、土岐弾正頼遠と「二条河原落書」を読む。文観大僧正の行列をからかい、その足で足利邸へ向かう。道誉、足利兄弟に天皇と大塔宮の阻隔を提案する。(婆娑羅)

初秋 道誉、所用で訪れた雑訴決断所にて楠木正成と談笑。文観と楠木党の繋がりについて聞く。道誉、正成と足利との仲介を申し出るが謝絶される。(婆娑羅)

十月 北畠顕家、七歳の義良親王を奉じて陸奥へ赴任。足利直義も九才の成良親王を戴いて、甥千寿王の居る鎌倉へ下る。(婆娑羅)

10/21 護良親王が、天皇の命を受けた結城親光、名和長年に捕らえられる。(婆娑羅)

11/15 護良親王が鎌倉に移される。(婆娑羅)

 中条出羽守、護良親王の世話をする。(忍法創世記)

建武二年 

07/14 北条高時の遺児時行が、諏訪頼重らに擁立されて挙兵する。(婆娑羅)

07/23 護良親王が、北条に追いつめられた足利直義により幽閉中の鎌倉で暗殺される。28歳(誕生:延慶1(1308))。足利直義は成良親王を奉じて西走する。(新暦1335/08/12)(婆娑羅)

八月 足利尊氏が北条時行の討伐を名目に勅許を得ずに京都を出発する。北条時行の占領していた鎌倉を奪回する。(婆娑羅)

十月 足利尊氏が天皇の帰京命令に従わず、鎌倉幕府の旧跡に建てた新邸に移る。(婆娑羅)

十一月 尊氏の帰還命令無視に対し、新田義貞の討伐軍が出発。尊氏は初め抵抗の意志を見せなかったが、弟直義が敗れるとこれを救う為腰を上げ官軍を撃破。そのまま上洛する。(婆娑羅)

建武三年/延元元年

一月 京を巡って足利軍と官軍が戦う。敗れた尊氏、兵庫より海路九州に走る。(婆娑羅)

02/29 南朝が「延元」と改元する。(新暦1336/04/11)

四月 足利尊氏、九州で再起。(婆娑羅)

05/25 湊川の戦い(足利尊氏対新田・楠木)。新田は敗走、楠木は孤立して敗れた。楠木正成と正季が刺し違えて死ぬ。43歳(誕生:永仁2(1294))。(婆娑羅)

08/15 足利尊氏の奏請により、光明天皇が即位する。(婆娑羅)

10/10 新田義貞が恒良・尊良親王を奉じて北陸へ去る。(この際に皇位と三種の神器を譲り受けたとされる)(婆娑羅)

11/02 足利尊氏の意向により後醍醐天皇から光明天皇へ正式に神器の授受が行われる。(婆娑羅)

十二月 後醍醐天皇が密かに京を逃れ吉野へ移る(南北朝分裂)。(婆娑羅)

延元二年(北朝:建武四年)

03/06 新田義貞の子義顕が義貞不在の金ヶ崎城をもちこたえきれず、尊良親王とともに自害する。恒良親王捕らえられる。(婆娑羅)

四月十三日 道誉、足利直義の指示で花山院幽閉中の恒良親王を毒殺。(婆娑羅)

延元三年(建武五年/歴応元年)

05/22 北畠顕家が高師直と堺の石津で戦い敗死する。21歳(誕生:文保2(1318))。(婆娑羅)

07/02 新田義貞が、斯波高経と戦って敗死する。38歳(誕生:正安3(1301))。(新暦1338/08/17)(婆娑羅)

08/11 北朝が足利尊氏を征夷大将軍に任命する(室町幕府初代征夷大将軍)。(新暦1338/09/24)

08/28 北朝が「暦應」に改元する。(新暦1338/10/11)

延元四年(暦応二年)

08/15 後醍醐天皇が皇太子義良親王に譲位する(後村上天皇)。(新暦1339/09/18)

08/16 後醍醐天皇が吉野賀名生の行宮で没。52歳(誕生:正応1(1288)/11/02)。(新暦1339/09/19)(婆娑羅)

 北畠親房、神皇正統記を著す。

延元五年/興国元年(暦応三年)

興国二年(暦応四年)

晩秋 師直、塩谷判官高貞の妻に横恋慕。兼好法師に手習い用と偽って書かせた恋文を送りつけるが、その場で破られる。塩谷判官、京都から領国出雲へと出奔する。この事件が浅野内匠頭の刃傷事件と結びつき、忠臣蔵の芝居が生まれる。(婆娑羅)

 道誉、兼好法師の依頼で塩冶の逃走を支援するが失敗。師直の追求を逃れるため、妙法院を焼き流刑に処される。史実ではこの焼き討ちは前年の暦応二年である。よって塩谷事件の際、道誉は京にいなかった。(婆娑羅)

興国三年(暦応五年/康永元年)

九月 土岐頼遠、光厳院の牛車に狼藉を働く。十二月に処刑。(婆娑羅)

正平二年(貞和三年)

夏 南朝方・楠木正行が決起。(婆娑羅)

正平三年(貞和四年)

01/05 楠木正行(小楠公)が四条畷(しじょうなわて)で高師直と戦って敗れ、弟正時と刺しちがえて自決する。23歳(誕生:嘉暦1(1326))。(新暦1348/02/04)(婆娑羅)

01/28 高師直が南朝の皇居を攻撃する。吉野行宮や蔵王堂など堂搭を焼払う。道誉南朝のゲリラ戦に遭い一子秀宗を失う。(婆娑羅)

正平四年(貞和五年)

七月末 道誉、上杉・畠山の刺客に狙われる。八月四日の将軍との謁見に上杉・畠山両氏の同席を求めその場を治める。(婆娑羅)

08/04 道誉、将軍・尊氏と謁見。弟・直義の他、上杉重能・畠山直宗が同席。道誉、席上で彼を礼賛した珍「太平記」を披露し、作者の究明を求める。高師直・師泰兄弟の軍勢が御所を囲む。道誉、交渉役を買って出て直義の出家隠棲と上杉・畠山両氏の配流を条件として飲ませる。(婆娑羅)

08/24 上杉重能・畠山直宗、配流先への移送途中に惨殺される。観応の擾乱の始まり。(婆娑羅)

 足利直義の養子(尊氏庶子)直冬、九州で反乱。(婆娑羅)

正平五年(観応元年)

02/27 北朝観応に改元。

04/08 「徒然草」の作者・吉田兼好、没。68歳(誕生:弘安6(1283))。(新暦1350/05/14)

六月 高師直、直冬討伐の為九州へ向かう。

十月 尊氏、自ら直冬討伐に向かう。直義、京を出奔し兄との全面対決に踏み切る。(婆娑羅)

十二月 直義、南朝に身を投じる。(婆娑羅)

正平六年(観応二年)

二月 尊氏、直義軍に敗れ敗走。道誉再び交渉役を務める。(婆娑羅)

02/26 高師直・師泰兄弟、京への護送中に上杉・畠山の遺臣に討たれる。(婆娑羅)

八月 直義、京を脱出し再び反旗を翻す。(婆娑羅)

 尊氏、南朝と和睦。北朝崇光天皇が廃されて年号も正平六年に統一される(正平一統)。(婆娑羅)

正平七年(観応三年/文和元年)

二月 直義敗北を認め、鎌倉に籠もる。(婆娑羅)

02/23 道誉、尊氏を訪問。直義の殺害を献策。(婆娑羅)

02/26 直義、道誉により毒殺される。(婆娑羅)

09/27 北朝文和に改元。

正平九年(文和三年)

四月 北畠親房没。(婆娑羅)

正平十二年(延文二年)

十月 文観没。(婆娑羅)

正平十三年(延文三年)

四月 戦いで憔悴した尊氏、道誉にその憎しみの矛先を向ける。(婆娑羅)

04/30 足利尊氏、没。54歳(誕生:嘉元3(1305))。(新暦1358/06/07)(婆娑羅)

正平二十二年(貞治六年)

11/25 将軍義詮が政務を足利義満に譲り、細川頼之を執事(管領)とする。道誉、存在感が薄くなる(婆娑羅)

12/07 足利義詮、没。38歳(誕生:元徳2(1330)/06/18)。(婆娑羅)

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