比較歴史学 第六講 開拓者と完成者

 大河ドラマの平清盛を見て、時代考証の本郷氏の「謎とき平清盛」を読んで思いついたネタ。

§1 二人の開拓者

 日本の歴史はしばしば西国と東国の綱引きで進む。西国志向はしばしば外向き・重商主義傾向をもち、逆に東国志向は内向き・重農主義傾向を示す。

 西国志向の改革者として平清盛と織田信長が挙げられる。両者の目指した政策はその死によって頓挫する。日本は島国だからもっと海洋志向を持っても良い筈なのだが。

 本郷氏は信長の苛烈と清盛の沈着を対比させていますが、これはもう両者の置かれた環境の差でしょう。清盛は天下を取るために保元・平治の二つの戦いだけで済みましたが、戦国の世を生きた信長はまさに戦いの連続。要するに武力行使の必要性が段違いな訳です。

 清盛と信長の共通点は、それまでの常識を打ち破り新たな国の形を示したこと。そしてその死後にその路線は否定され逆方向の安定政権が生まれたこと。

§2 二人の完成者

 清盛の後を受けて武家政権を完成させた源頼朝。そしてその頼朝を崇拝し武家政権の完成形を作り出した徳川家康。この両者は先行者とは真逆の東国向きの重農主義政権を構築した。

 重商・海洋主義政権は二度までも否定されたが、それはこの路線が劣っていたと言うことでは無い。それは清盛と信長の間にあってやはり外向き政権を構築した足利義満の存在を見れば分かる。

 義満の路線もその息子義持によって否定されたが、これは義満の独裁に対する反発が主な要因であった。そう外向き政権のもう一つの条件は強権、つまり中央集権体制なのだ。これに対して頼朝や家康の作り出した封建制は地方分権体制である。

 要するに日本の政体は地方分権と中央集権との間での揺れ、といっても常に分権よりの振り子であった。もっとも長く続いた中央集権体制は明治政府で、戦後も多少弱まったとは言えその傾向は強い。そして、押さえられていた地方分権主義が徐々に力を強めつつある。

§3 平家政権存続の可能性

 以前にも下記関連稿にて検証したが、平家政権存続の可能性について再考したい。

 明治政府の結末から外向き政権が侵略的というイメージも受けるが、平家政権は貿易立国を目指した平和的な政権であったと思われる。故にこそ鎌倉政権の攻撃に敗れたとも言えるが。

 まず治承・寿永の内乱は”源平合戦”ではなかったと言う点に注目したい。これは東国武士が姓に関わらず団結して西の朝廷からの自主独立を目指した闘争であった。これを一人平家への復仇として突っ走ったのが義経である。

 頼朝・義経の父源義朝は反清盛派の戦闘指揮官であって、反清盛派の頭目では無い。その遺児たちが戦うべきは京都の朝廷勢力であるはずだ。保元平治の乱を幼いながらも実体験していた頼朝はそれを理解していた筈だが、赤子であった義経にその実感は無い。加えて義経にとっての清盛は母を奪った仇敵である。

 義経の暴走が無ければ平家政権は西国に割拠できたかも知れない。そして平家勢力が存続していれば鎌倉政権の独立も容易であり、また対抗上の要件から源氏将軍も継続されていたであろう。

 義経がいなくても平家が追討される理由はある。安徳天皇とともに持ち去った三種の神器である。神器の返還、安徳天皇の還幸と後鳥羽天皇への譲位が整えば、とりあえず平家の存続は確保できる。(神器だけ返して安徳天皇だけを抱え込んでいても意味が無い)

 そもそも高倉上皇が存命で平家協調路線の院政が続いていれば、その異母兄以仁王の挙兵も無く、ひいては”源平合戦”そのものが無くなるのであるが。

 関連稿 源平合戦の地政学的検証

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