源平合戦の地政学的検証

 源平合戦を海軍国家=平家陸軍国家=源家の抗争と言う側面から地政学的な検証を試みる。

1 平家政権の先進性

 平家政権は不幸な政権であった。その悲劇の根元は時代を先取りしすぎていた事にあった。平家政権の最初の試みは板東の「新皇」平将門の挙兵であった。将門の挙兵は武家政権の先駆けであったが、明らかに時代に先行しすぎていた。将門の新皇宣言(939年)が摂関政治の完成者である藤原道長の摂政任官(1016年)よりも早い事がその事を証明している。そして清盛の福原政権である。

 清盛の政権の何が先進的なのか。平家の富を支える基盤が土地支配(重農主義)を飛び越して日宋貿易(重商主義)にまで及んだ点である。これまた時代を(三百年ほど?)先取りし過ぎている。しかもそのために貿易に便利な福原への遷都まで強行している。平氏政権の不幸はその先進性が一所懸命をスローガンとする当時の保守的な中世武士団に理解されなかった事である。

 蛇足だが、この後もう一度早すぎるが故に挫折した平家政権、つまり信長が居る。ただし信長の平氏はあくまでも自称であるが。

2 平家の敗因

 では平家は滅ぶべくして滅んだのか。確かに清盛の死によって求心力を失っていた事は確かである。だが平氏政権は当時のシステムに合致した強力な物であった。それに対する源氏の総大将・頼朝は一代で平氏を打倒出来るなどとは思っていなかったであろう。それほど当時の源氏と平氏の戦力差は隔絶していた。

 さてこの稿では源平合戦を陸軍国家海軍国家の対決として捕らえると言った。その流れで言うと、平氏にとって厄介な敵は鎌倉の頼朝でも、木曽義仲でもなく、瀬戸内海の河野水軍であったと言える。これを倒すか最低限でも味方に引き込む事が出来ていたら、平氏の急速な没落はあり得なかったであろう。

 しかし平氏の最大の敗因は日本が狭すぎた事である。島嶼国家である日本の選択として海軍力に重点を置いた政策は間違っていたとは言えない。だが、内部での主導権争いに置いてはその狭さ故に陸軍力が優越する。鎌倉が国内最大の陸軍力を得た時点で両者の勝敗は着いていた。

 平氏の失敗は安徳天皇と三種の神器と言う爆弾を抱えこんだままで西に走った事にあると思う。この状態が長期化すれば源平合戦どころではなく、南北朝ならぬ東西朝時代という大分裂期が到来したかも知れない。天皇家の分裂が如何に危機的な状況を招くかは南北朝の動乱を見れば一目瞭然であろう。それを思えば平氏の追討など行き掛けの駄賃である。平氏武士団は所詮海軍国家であり、後の尊氏軍のように復活して逆襲してくる筈がない。よって三種の神器の奪還という使命がなければ源氏軍としては無理に敵のホームグラウンドまで追う必要は無かった。義経の失敗はその点を理解出来ずに平氏の討伐を優先して行動した事にある。

3 源氏の勝因

 さて勝者の側から検証してみよう。頼朝は源氏の嫡統ではない。彼が勝ち残ったが故に初めから嫡統であったかのように喧伝されただけである。もし木曽義仲が勝利者となっていたなら、義仲こそが源氏の嫡統を名乗り、頼朝の方は伊豆源氏あるいは鎌倉源氏と呼ばれる分家扱いに成っていたであろう。

 平氏政権が当時の武士団から浮き上がっていたのだから、義仲は共倒れの危険を覚悟してでも鎌倉と先に決戦を行うべきであったと思う。鎌倉の頼朝をうち倒し東国武士団を自分の元で統括出来れば、平氏との決戦は特に必要なかったであろう。

 平氏の急速な滅亡には義経という軍事的天才の活躍が確かに大きい。だが、たとえ義経が居なくても頼朝の政治力は充分に平氏をうち倒せたと思う。義経の存在意義はむしろ平氏滅亡後、奥州藤原氏に対する攻撃の大義名分を与えた事にある。

 この奥州藤原氏も誕生当時はいざ知らず、源平合戦期には海洋貿易国家に成っていた。平泉の繁栄も大陸との交易あっての物である。つまり源平合戦期には内側に鎌倉の頼朝政権木曽義仲勢と言う二つの陸軍国家が対峙し、そして外側に平氏奥州藤原氏と言う二つの海軍国家が屹立していた事になる。狭い島嶼国家の宿命として陸軍国家が勝ち残ったのはある種の必然性がある。しかしそのために大陸で起こりつつあった世界史的な潮流に乗り遅れた感があるのは非常に残念である。

4 仮想・妄想

 義経と弁慶に関する興味深い一稿が明石散人氏の著作「謎解き日本史」講談社文庫中にある。「武蔵坊弁慶の正体」と言う一稿の詳細は同書を読んで貰うとして、要点は弁慶が源氏の正統であったかも知れないと言う点、そして義経と弁慶の主従が相互補完関係にあったという点である。もう一歩踏み込んで考えれば、実は架空の存在であったのは弁慶ではなく義経の方であったかも知れない。つまり義経という頼朝の弟は実は創作上の人物で弁慶の血統を隠すためであったのではないか。そうすると頼朝と義経のよそよそしさを説明がつく。

 平家が安徳天皇を伴わず九州四国辺りの地方政権として生き残りに成功していたらどうなったか。その場合地方政権に落ちた平氏が宋朝との貿易を維持出来るかという問題はあるがその点はひとまず置いておく。この場合、大元と対峙するのが海軍国家の平家であるから、万が一戦いになっても水際で撃退出来るであろう。だがそれ以前に外向きの平氏政権は外交音痴の朝廷や鎌倉幕府と違って巧みな外交手腕を見せるであろう。うまくいけば南宋や高麗に支援を与えて防壁としたり、大元との新たな交易関係を構築出来るかも知れない。最悪のケースはモンゴル騎兵を引き込んで鎌倉幕府の打倒を狙う物である。両者の中間案として南宋からの難民(第二次遠征で南宋より発した軍勢の実体は移民のための非戦闘要員であったらしい)を受け入れて国力を伸ばすという設定もあり得るであろう。

 関連稿・コラム世界史の誕生

 コラムトップに戻る