文明の衝突 植民地統治政策
hpの企画、と言うか戦国史のシナリオ作りで、ヴィクトリア時代の世界情勢について色々と調べて居るのだが、その過程で西欧列強の植民地の統治政策の違いに気が付いた。それを東西文明比較の番外稿として提示する。
1 大航海時代の先駆者 ポルトガルとスペイン
内乱が終わると外征に転じると言うのが歴史の常道である。だがレコンキスタを終えたスペインとポルトガルが西の大洋へ乗り出して大航海時代の先駆者となったのには別の理由がある。当時のヨーロッパ=ローマカトリック圏は文化的な後進地であり、イスラム圏と接触を持つイベリア半島はヨーロッパの中で一番進んだ文化圏であった。キリスト教的な迷信に取り憑かれていた他のヨーロッパ人達はサハラの南は炎に包まれていて南下出来ないと信じていた。イスラム文化を受け継ぐイベリア半島の人間だけがそうした迷信から自由だった。
ポルトガルは先んじてレコンキスタを成し遂げていち早く外洋へ乗り出したが、何せ彼らは人口が少なかった。優れた人材が海外へ流出し国内は空洞化してしまう。遅れて統一を成し遂げたスペインはポルトガルよりは多少マシであったが。それでも世界帝国を作るには不足である。
その打開策であろうか、スペインが取った手法が融合政策である。即ち、現地民と混血することでスペイン語人口を増やすと言う方式である。これは勃興期の都市国家時代のローマが取った手法に類似している。
ローマは陸続きだったから良かったが、スペインやポルトガルのそれは海を越えての拡大であったため完全な融合には成らず、支配階層と被支配階層との境界の曖昧化をもたらす事になり、真っ先に独立戦争を誘発した。
2 永遠の追走者 フランス
大航海時代から始まった覇権システムにおいてフランスはほぼ一貫して二番手で有り続けた。逆に言うとトップに成れなかったと言うのが正しい。フランスが何故覇者になれなかったかについては置くとして、フランスが植民地帝国において取った政策を見ていく。
国土のほとんどが平坦で農地に事欠かないフランス(産業革命を経た今なお農業生産力は高い)は人口に関してはさほど不足を感じなかったのだろう。そんな彼らの手法は同化政策であった。つまり、文化的な現地民に本国の方式を持ち込んで、それを受け入れた人々には本国並みの待遇を与えている。
この手法はローマ帝国発展期の”ローマ化”を彷彿とさせる。但し、この手法は常にローマ化されない外縁との差別化が生じる。そしてすべての植民地にそれが浸透する前に帝国主義時代は終焉をむかえ、フランス植民地帝国は、他の列強と同様に崩壊してしまった。
3 覇者の明暗 オランダとイギリス
第二の覇権国家オランダは二つの大きな弱点を持っていた。第一に人口の少なさ。彼らはこれをポルトガルのように分散させずに集中運用する事で克服した。その効率化として編み出されたのがプランテーション方式である。これはオランダと蘭領インドの関係はローマとその穀倉地となったエジプトの関係に似ている。これは相互依存関係にあり、片方が転けると維持出来なくなる。
第二は海洋国家でありながら敵対国と陸続きであった事である。これは人口の少なさと相まってオランダの致命傷となった。代わって登場したのが大陸から切り離された島国のイギリスである。
最後に登場した覇権国家イギリスはローマ帝国最盛期の最も洗練された植民地統治を継承した。即ち分割統治である。彼らは現地の政治システムに手を加えず、現地民から協力者を募って分断工作をはかり、彼らを介した間接的な統治を行った。
この方式はあまりに上手く行き過ぎたため植民地帝国の解体後も現地民同士の抗争が発生する事になる。 その結果、帝国崩壊後も英連邦という形を変えた宗主関係が続いている。
4 ローマ帝国の継承者 アメリカとロシア
現代の覇権国家アメリカ合衆国はローマ帝国の手法をすべて受け継いでいる。初期の植民期には融合政策を取り、独立後のモンロー政策はアメリカ大陸における分割統治である。英国二百年の覇権を継承したアメリカは言ってみれば東ローマ=ビザンティン帝国を彷彿とさせる。
一方、ビザンティン帝国を形式の上で継承したのがロシア帝国である。モスクワ大公イヴァン三世はビザンティン皇帝の姪を娶り、ツァーリの称号を名乗る正統性を得たとされる。コンスタンチノープルの陥落後はモスクワこそ第三のローマであると称している。(但し、ツァーリの称号はモンゴル帝国のハーンより来ていると言う説もある。どちらを取るかはロシアをアジアと見るかヨーロッパと見るかに拠るのだろう)
5 アジアの逆襲 日本
そもそもアジアとはどこを指すのか。中世ヨーロッパの世界観は東を上にした丸い平面世界をT字で区切り、横棒の上がアジア、右下がアフリカ、左下がヨーロッパであった。つまりアジアとはヨーロッパから見た東すべてを指す。 このアジアの概念の拡大により本来のアジアであった今のトルコ地方は小アジアと呼ばれる。
このアジアの果てにあった小さな島国が日本である。日本が最後まで独立国として残ったのは無論ヨーロッパから最も遠かった(東回りでも西回りでも)事もあるが、その日本が帝国主義の時代を終わらせたのは偶然だろうか。
元々、戦国末・江戸初頭の段階ではヨーロッパ列強と日本の力にさほどの差はなかった。むしろ陸軍力では日本や明・清帝国の方が優っていただろう。西欧の優位は、ヨーロッパ人は自力で日本へ来られたが日本人は自力でヨーロッパへたどり着く事が出来なかった。その差も慶長遣欧使節団の段階で解消されつつあったから、鎖国がなければ普通に行き来が出来る様に成っていただろう。
さて明治日本の植民地政策である。これは上記の区分と比較すると同化政策に近い。元々民族的に近かった琉球とアイヌはそれで良かった。問題はそれなりに独自の文化を持っていた朝鮮である。しかし、見てきた通り相手によって政策を使い分けるというのは容易ではない。西欧列強でも政策が現地にそぐわない場合には失敗している訳で、他に選択肢がなかったとは言え手を出した事自体が失敗だったのかも知れない。