日本史における公武の激突 01/04/10加筆修正
現代の政局もなかなかに興味深いのだが、とりあえず(比較的得意な)歴史上の事象をいくつか取り上げてみたい。
予備知識 権門体制について
初稿では権門体制について、前提なしに書いたので分かりにくかったのではないかと思い、再編に当たってその辺の知識をまとめてみたい。
権門体制とは、執政を受け持つ公家、護持を司る寺家、守護を担う武家の三つが併存する体制を言う。これを統括するのが日本国王である訳だが、これを天皇とするか治天の君とするかで意見が分かれるらしい。ただ”公家”というのは本来は朝廷貴族ではなく天皇自身を指していたらしいので、その上に位置する国王はやはり治天の君とすべきであろう。
権門体制は天皇が退位後も実権を持ち天皇が国王でなくなった時点を起点とし、鎌倉時代には比較的うまくいっていたのだが、一人の天皇が(意識していたかどうかは別にして)この体制を打ち壊そうとして立ち上がった。それが後醍醐である。以来二度の権門闘争が発生した。一度目は南北朝期における北朝方対南朝方 、そして幕末・維新期における 佐幕派対尊皇派の抗争である。日本の歴史上、二大権門が拮抗して長期に渡って争った例はこの二件に絞られる。これに比べれば、蘇我・物部の崇仏論争や壬申の乱は公家内部の党内抗争に過ぎない。
南北朝期は足利義満という怪物政治家の剛腕により北朝すなわち武家が取りあえず勝利したが、幕末期には将軍慶喜の教養が邪魔をして尊皇すなわち公家が一応の勝利を得た。明治新政府が武家階級を解体したのは近代化という必要性あるが、公家による報復行動と見ることも出来よう。
第一幕 南北朝動乱期
北朝=武家の代表が足利尊氏である。幕府という日本特有の政治体系は公式には三例あるが、創設者の頼朝や完成者の家康に比べると余りに線が細い。経歴を見れば分かるが明らかに苦労知らずのお坊ちゃんである。彼の優柔不断さが南北朝の動乱をだらだらと引き延ばしてしまったのは間違いあるまい。お坊ちゃんが政治家に向かないのかというと必ずしもそうではない。二朝並立体制を打破した彼の孫義満の剛腕ぶりを見れば明らかである。
歴史上における彼の罪は(古い皇国史観に見られるような)後醍醐帝に刃向かった事ではなく、むしろ帝を始末し損ねた事にある。言い換えれば彼を朝敵と断じる資格があるのはむしろ彼が担いだ北朝側の天皇にある。尊氏は政治的には北朝を担ぎながら心情的には南朝、後醍醐帝に向いていた。その論証は尊氏という彼の名前に如実に顕れている。主を変えた以上気持ちもきっちり切り替えなければいけない。
さて南朝=公家側の代表選手は言うまでもなく後醍醐帝であろう。皇国史観では聖帝、逆に戦後は批判的に見られることの多い天皇だが、実際の所どうなのであろう。まず政治家としては不徹底なのは尊氏とも共通する。彼の野望は大きく二つあった。つまり王政復古と皇統独占である。悪く見ればこれは時代錯誤と私利私欲といえよう。二つの内一つならば成功したかも知れないが、二つは密接に絡み合ってどちらか一方を切り捨てるというわけには行かない。これが(建前上とはいえ)達成された明治維新なので、彼は生まれる時代を間違えたのかも知れない。いや皇国史観を持ち出すなら、彼の執念が明治維新を生んだとでも言おうか。
幕間 第三勢力の動向
寺社勢力の勃興期は聖武天皇期、鎮護仏教の思想が確立した頃と考えられる。国分寺は仏教の国営化を意味するが、国教として確定したわけではない。天皇家の権威を支える古くからの神道は依然存在する。普通の国なら此処で宗教戦争と言う事になるのであるが、我が国はやや趣を異にする。鎮護仏教と国家神道(この言葉自体はまだないが)は習合して一つの勢力として確立した。
古代王権は祭祀的な部分と、世俗的な部分が有るのだが、日本の天皇家はこれを二つながらに手放してしまう。天皇家の氏神は伊勢へ隔離し、また新たな祭祀である仏教もなし崩し的に民営化の方向へ向かう。此の傾向は聖武期に既に見られ、国家的事業であるはずの大仏開眼に民間僧・行基をいられ「第三セクター化」している。一方世俗権威を支えるのは軍事力なのだが、これも平安期には健児(こんでい)と呼ばれる軍隊とは異なる組織へ改編してしまう。(常識的に見て”軍隊”なのにそう名乗らない組織は現代にも有るが)その結果民間の自警団から武士団が成長してくる。公家は自らの手で野党を生み出してしまった訳である。
さて寺社勢力の一つの頂点は院政期、あの白河法皇が意のままに成らぬ物の一つとして叡山を挙げた頃であるが、此処で取り上げる第三勢力としての寺家権門が成立していたとは言えない。権門と呼ぶからには政権を取れるだけの意欲と能力が必要であるが、この時期は単なる圧力団体に留まる。その間に後発の武家が一気に権門化を成し遂げついには平家政権が誕生する。その後成立した鎌倉東国王権は祭祀的要素の薄い王権で、其処に鎌倉新仏教の登場の余地が生まれた。そうして力を蓄えた寺社勢力は南北朝の動乱期の天皇王権の凋落によって、寺家権門として浮上成立したと考えられる。
天皇王権の凋落原因は、言うまでもなく後醍醐帝の失敗である。後醍醐が具体的に何をしたかったのか、以前の記事を書いた時点ではまだ良く理解していなかったのだが、どうやら絶対王権の樹立にあった物と思われる。つまりかつて天皇家が手放してしまった祭祀王権と世俗王権の回収がその主目的だった様である。二つの王権を天皇家から引き剥がして、天皇王権を空洞化したのは恐らく藤原一門の陰謀であろう。ただそれを自分たちの手に入れず外部へ放り出した点が如何にも日本的と言えるが。 その意味で後醍醐と対置すべきなのが足利義満であろう。かれは足利絶対王権の確立をめざし、やはり失敗した。此の二人が同時代にあって絶対王権の確立を目指して戦えば日本の歴史は大きく変わっていたであろうに。
南北朝の動乱を経て、これまで京都西国王権と鎌倉東国王権が並立していた日本は、一つの王権の元に糾合されることになったが、それは絶対王権とはほど遠い物であった。これに近い物は徳川幕府まで待たねば成らない。 寺家権門は本願寺門徒王国の成立を頂点とするが、信長の武威に敗れ去る事になる。
中世の徒花に終わった寺家権門であるが、これを支えた物は何かと言えばどうやら資本主義だったらしいのである。後醍醐帝が着目し手を結んだ異形の者達は、流通と金融を担う者達であったのである。これらが結びついて資本主義の概念が発生したと考えられる。後醍醐帝の思想的背景は宋学(朱子学)であったが、彼の失敗の要因は相容れぬ重農主義の宋学と資本主義(重商主義)とを結びつけようとしたことであったのかも知れない。
第二幕 幕末維新期
さて公武の覇権抗争の第一幕、はトップの無理解と人材不足によりひとまずは武家の判定勝ちとなったが、足利幕府の足腰は弱く、すぐにその基盤は揺らいでしまう。それは足利家最大最高の政治家であった義満がその力を武家の権力強化より、公家からの権威の奪取に注いでしまった事に因る。これは言うなれば徳川幕末(以後幕末と言えば徳川幕府末期を指すこととする)に先立つ、最初の公武合体路線といえるであろう。
足利義満による公武合体路線の失敗の付けは尾を引くが、それはさておき次代は戦国を経て幕末へと一気に進める。戦国期、幕府=足利将軍権力の弱体化に伴い、朝廷の権威は相対的に高まる。それは織豊政権下で最大となり、徳川幕府の成立と共に下降に向かう。その理由はいくつか有るが、家康が一つの手法として政治的権威即ち禁中並びに公家と思想的権威即ちを並立させる形で取り込んだ点にあると思われる。
武家・公家と並ぶ第三の権門、は一向一揆を一つの頂点として衰退に転じる。歴史的に培われてきた日本人の体質なのだろうが、宗教勢力は遂に一つの権門機構としては確立しなかった。
前置きはこれくらいにして、幕末維新の話に入る。
いわゆる幕末維新期は戦国と並んで日本人に人気のある時期であるが、それは多くの人が指摘するように、日本的でない要素が色濃く出ているからといえよう。ただ、個人的な好悪を除いて冷静に見ると、この時期の動乱は言ってみれば佐幕派の白色テロと薩長土(この三藩を同色にするのはやや問題があるかと思うが)赤色テロの殺し合いと断じることが出来るであろう。 これはどちらが正しいかという論議が端から無意味だという意味であって、悪意はないので、くれぐれもその点を誤解なさらないように。
単純な権力闘争であるならば、どちらが勝っても体制に影響はない。実はこの時期、国際的には公武という色分けが無意味な状況下に有った。日本人にとって幸運だったのは、第一に、短絡的な権力志向のテロリスト達が初期抗争で淘汰され、第二に、その中で政治的視点を持つ者が生き残り浮かび上がってきたと言う二点であろう。
これは全くの偶然ではなく、急進派は急ぎ過ぎてつぶれ、結果として穏健派が残るという、政治力学の必然といえよう。
参考文献一覧 日本史 中世