パヴァーヌ年表1 起点から鎖国まで
大法王ギゼヴィウスの鎖国令は2・3世紀前とだけ書かれ正確な年代は不明なのだが、史実における英国におけるカトリック王ジェームズ2世の即位およびフランスにおけるナントの勅令廃止をカトリックの勝利と考えて1685年に置く。(起点からほぼ百年なので都合が良い)
88年
七月 エリザベス女王暗殺。ウォルシンガムの大虐殺とカトリック叛乱。
バーリー男爵ウイリアム・セシル引退。次男ロバート・セシル、カトリック勢力との徹底抗戦を指揮。
八月 スペイン無敵艦隊を率いるシドニア公、フランドルでパルマ公と合流。ブリテンの内乱を知って上陸作戦を敢行する。
九月 アンリ3世、ギーズ公と和解してパリに帰還。
89年
八月 ナバラ王アンリ(*史実におけるブルボン朝初代アンリ4世)、謀殺。(*史実ではアンリ3世の暗殺)その遺領はアンリの妻であった王妹マルグリットが継承。
抵抗派の指導者ロバート・セシル、スペイン軍との戦いで戦死。融和派の代表エセックス伯ロバート・デヴァルー、フェリペの王位継承を容認。
ウォルター・ローリー、ロアノーク植民地に出発。(宰相エセックス伯による実質的な追放)
フェリペの長女イサベル王女、名代としてロンドン入城。デヴァルーの仲介でイサベルとスコットランド王ジェームス6世が結婚。長老派教会を解体。アンドリュー・メルヴィル、反逆罪で捕縛されロンドン塔に幽閉。
大ブリテン軍、ネーデルラントに進軍。オランダ軍司令官マウリッツを破る。オラニエ公フィリップ・ウィレム恭順。(*史実で言う80年戦争だが、20年余りで収束)
平定されたネーデルラントはイサベル王妃の結納地としてイングランド領となる。(*オランダが再カトリック化されたことで、東インド会社の誕生もなし)
90年代
ドイツ諸侯のカトリック帰正(→詳述)。
90年
(* エドマンド・スペンサー「妖精の女王」)
91年
イングランド、モスクワ会社に解散命令。
92年
バーゼル司教、帰正したヴュルテンベルク公及びバーデン=バーデン辺境伯の後押しで帰還。バーゼル市はスイス連盟から離脱。
93年
オスマン軍、ブダに進軍。
94年
三月 アンリ3世没。ギーズ公アンリの息子(母方でブルボン家とも繋がる)シャルルが即位。(*史実ではアンリ4世の戴冠)
スウェーデンで反カトリック反乱。
フランシス・ベーコン、法務総裁に就任。(*史実ではライバルエドワード・コークに敗れる)
96年
ブレスト合同。ウクライナ東方カトリック教会が成立する。
98年
四月 シャルル10世フォンテーヌブロー勅令を出す。フランス国内のプロテスタント教会が解体され、多くのプロテスタントがスイスへ脱走する。(*史実では信仰の自由を与えるアンリ4世のナントの勅令)
九月 スペイン王フェリペ2世死去。フェリペ3世即位。イングランド王位は娘婿となったジェームスに継承される。
スペイン王フェリペ3世、パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの戦功を称え、息子ラヌッチョにポルトガル王位を継承させる。(*史実ではパルマ公は92年にフランスでアンリ4世と戦って戦死した)但し、ポルトガル王が兼任していたアルガルヴェ王位はスペインへ譲渡される。
(*スコットランド王ジェームス『自由なる君主国の真の法』)
99年
フェリペ3世の婚姻。貴賎結婚の緩和。(*史実では宗教や家格を優先した叔姪婚。ドイツ諸侯の帰正により選択肢が広がる。
1600年
十月 ケダイネイ合同。ポーランド=リトアニア共和国が解消され新たにスウェーデン=リトアニア連合王国が成立。(*史実では大洪水の最中の55年に成立するが実現せず)
マリー・ド・メディシス、ナヴァーラ女王マルグリットの仲介でフランス王シャルルに嫁ぐ。
01年
八月 ルーマニア王国建国。
02年
フランス軍ジュネーブ共和国を占領、同地に反宗教改革を進める。(*史実ではサヴォイア公国の侵攻、しかも失敗)
サヴォイア・ミラノ連合軍、ティチーノ州を占領。サヴォイア、帝国からの独立を承認され、ピエモンテ王を名乗る。
デンマーク東インド会社設立。(*史実ではオランダ東インド会社。オランダ人亡命者によって組織される)
03年
三月 イングランド・スコットランド連合法。以後アングル=ランドと呼称する。(*史実ではジェームズ王の即位)
六月 ジェームズ王、私掠行為の終息を公式に宣言。
04年
フランス東インド会社設立。
05年
清教徒による火薬陰謀事件。(*史実ではカトリックによる政府転覆未遂事件)
06年
八月 ゼブジトフスキの反乱。
九月 クルテア合同。教皇庁、ルーマニア王国を承認。
十月 ツィトバ=トロク講和条約。ハプスブルク家、オスマン帝国と停戦。オスマン領ハンガリー及びバナト地方がハンガリー王国に復する。ヴェネツィア共和国、イストリア・ダルマチア・ヘルツェゴヴィナを獲得する。(ヴェネツィア=ダルマチア共和国と改名)
09年
(*モリスコ追放。ドイツでプロテスタント諸侯の大量帰正が進んだ現状では、モスリコのみを敵視することは無く、それによる食糧不足も起きない)
10年
三月 ストルボヴァの和約。ロシア・スウェーデン・ポーランドの国境線が画定。
五月 フランス王妃マリー暗殺。(*史実では夫のアンリ4世の暗殺)
ブリテン王ジェームズ1世の長男コーンウォール公(イングランド王太子)ヘンリー、プリンス・オブ・ウェールズの称号を与えられる。
ロシア動乱時代終焉。ロシア東方カトリック教会成立。
11年
シャルル10世、ジョワイユーズ女公アンリエットと再婚。
カルマル戦争。(デンマーク対スウェーデン)
12年
ボヘミア反乱。
13年
カルマル戦争終結。スウェーデン王ジグムント、クレネド条約によりノルウェー王位を得る。
14年
デンマーク、新大陸ニューデンマークの領有を宣言。(*史実ではニューネーデルラント)
15年
五月 ナヴァーラ女王マルグリット死去。その称号はシャルル10世の王妃マリーに継承される。
18年
二月 オラニエ公フィリップ・ウィレム死去。アングル=ランド王ジェームズの次男チャールズがオラニエ公を継承。
十一月 ポーランド王マキシミリアノ1世死去。プロイセン大公カロルがポーランド王に選出される。(以後、プロイセン大公位がポーランドの王位継承者とされる慣例ができる)
19年
三月 トランシルヴァニア公ベトレン・ガーボルが新たなハンガリー王に指名される。ハンガリーと同君連合であったクロアチア王の称号は皇帝フェルディナント2世に譲渡。
20年
スペイン宮廷、財政負担からフィリピンを放棄し日本へ売却する。(*史実では議会の提案を却下)
九月 清教徒の一団がメイフラワー号でプリマスを出航。日本領となったルソン島へ向かう。(*史実での行き先は言うまでも無く新大陸)
21年
六月 デンマーク西インド会社創設。(*史実ではオランダ西インド会社)
24年
リシュリュー枢機卿、フランス首席国務卿に任じられる。
六月 リシュリュー主導による対デンマーク同盟が成立。
25年
五月 デンマーク、包囲網を破るためスウェーデンに再侵攻。
リシュリュー、スイスに派兵しローザンヌを解放。あわせてカトリック信仰の強いフリブール州を併合。スイス森林五州、フランスの保護下に入る。スイス連邦事実上解体。
26年
十二月 プレスブルク条約によりハンガリー王冠領とハプスブルク世襲領の境界が定まる。
27年
五月 リューベックの和約。クリスティアン4世退位し、長男クリスティアン5世が即位する。スウェーデン、ノルウェーを獲得。
デンマークの帰正。聖クヌート修道会を創設し緩やかなカトリック化を進める。東インド会社は解散(特許取り消し)。
28年
三月 イングランド王ヘンリー9世、権利の請願を承認。国王と議会の対立が解消する。
32年
四月 スウェーデン=ノルウェー王(兼リトアニア大公)ジグムント死去。長男ヴラディスラヴが王位継承。
八月 ロシア、スモレンスクの奪還を目指してスウェーデン=ノルウェー王国に戦争を仕掛ける。(*史実ではスモレンスクを巡るポーランドとロシアの戦争)
33年
ポルトガル王オドアルド、フランスと同盟。(*史実ではパルマ公としての同盟)
34年
五月 ポリャノフカ条約。ロシア、東カレリアをスウェーデンに割譲(フィンランド大公領となる)し、フィンランド典礼教会を承認する。
デンマーク王クリスティアン5世、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクの娘マグダレーナ・ジヴィレと結婚。
ブラガンザ公ジョアン、ポルトガル王位を要求して挙兵。ポルトガル王位継承戦争。
35年
二月 リシュリュー、アカデミー・フランセーズを創設。(*史実のようなフランス語の純化政策を取らず、多言語並立路線)
37年
三月 ポメラニア公ボギスラフ14世死去。後継ぎが無く、領土は帝国クライスから外れてポーランド王冠領となる。(*史実ではスウェーデン王とブランデンブルク選帝侯で分割)
教皇ウルバヌス8世の仲介でスペインとポルトガルの和平がなる。ポルトガル王位継承戦争終結。
(*デカルト『方法序説』)
42年
十二月 フランス宰相リシュリュー死去。マザランが後任になる。
44年
スウェーデン王弟ヤン・カジミェシュ、ホルシュタイン公グスタフ・アドルフの娘クリスティーナと結婚。(*史実におけるクリスティーナ女王が親政を始めた年)
45年
四月 クレタ島を巡るオスマン帝国とヴェネツィア共和国の戦争。
五月 ハプスブルク、ヴェネツィアに加担してボスニアに侵攻。大トルコ戦争の開始。(*史実では第二次ウィーン包囲戦から始まる)
47年
七月 ナポリでマサニエッロ反乱。フランス王アンリ4世が反乱に加担しナポリ王位を獲得。(*史実ではギーズ公であったアンリがナポリ王を得ようとして失敗)
48年
五月 スウェーデン王ヴワディスワフ死去。王弟にヤン・カジミェシュが継承。
八月 オスマン帝国でスルタン・イブラヒムが処刑され、息子メフメト4世が即位。
51年
十月 アングル=ランドに航海条例。
(*トマス・ホッブス『リバイアサン』)
54年
七月 ポーランド・ロシア戦争。
九月 ルイ13世死去。息子ルイ・ジョセフがフランス王となる。その際にナポリ王位を放棄し、代償としてスペインからフランシュコンテを獲得する。
マザラン枢機卿、実質上のフランス宰相となる。
55年
七月 スウェーデン、ロシアに侵攻。(*北方戦争。史実ではポーランドへの侵攻)
十一月 ロシア、ポーランドと休戦。ポーランドとクリミアとの交戦は継続。
56年
九月 メフメト・キョプリュリュがオスマン帝国大宰相に就任。
十二月 ラドノト条約。ハンガリー王ラコーツィ・ジョルジ1世、ポーランドと同盟。
57年
オスマン軍、クレタ島より撤退。主戦場はバルカン半島に移る。
58年
五月 ハーデャチ合同。ポーランド=ルテニア共和国が成立し、ウクライナ・コサックに自治を認める。
61年
六月 カルディス条約。ロシア、プスコフをスウェーデンに割譲。
十月 オスマン帝国大宰相メフメト・キョプリュリュ没。息子のファーズル・アフメト・パシャが後任となる。
62年
ヤン2世・ソヴェスキ、ポーランド王に選出。
64年
八月 ヴァシュヴァールの和。ボスニアがハプスブルク家領(クロアチア王国領)に編入される。
66年
九月 ロンドン大火。
67年
一月 アンドルソヴォ条約。ポーランド・ロシア戦争終結。
七月 ブレダの和約。丁蘭戦争終結。
69年
九月 オスマンとヴェネツィアの講和。ツルナ・ゴーラ公がコソヴォを領有。
70年
ロシアでスチェパン・ラージンの反乱。
71年
フロンドの乱(*史実とは逆に貴族叛乱が成功。)によりコンデ公ルイ2世がフランス王位を継承。
75年
(*スピノザ『エチカ』)
79年
三月 王位継承法案否決。(*史実における王位排除法案)
83年
七月 ベオグラード包囲戦。(*第二次ウィーン包囲戦に相当)
九月 神聖同盟軍撤退。セルビア公国、オスマン宗主下での自治独立が認められる。
85年
二月 オラニエ公ヤーコブ、イングランド王を継承。
十月 大法王ギゼヴィウスの鎖国令。