ドイツ諸侯のカトリック帰正

 ドイツ=神聖ローマ帝国に反宗教改革が行き渡る過程。

 スイス連邦がフランスの侵攻により崩壊するまで。

89年

 皇帝の四弟マクシミリアン、ポーランド王位の請求権の放棄と共に釈放。ルドルフ帝、怠惰を責められて皇帝を辞任。次弟エルンストが継承。ルドルフはボヘミア王位のみを許されてプラハへ篭る。

90年

 内オーストリア大公カールが死去。エルンスト帝の三弟マティアス、フェルディナントの摂政となる。(*史実ではエルンスト本人が勤める)

 ブリテン軍、ネーデルラント平定後にドイツ北部に進駐。ドイツ諸侯の改悛。(プロテスタント諸侯のカトリック改宗を指す)

 ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン、甥のフレデリック・ヘンドリック(オランダ総督マウリッツの異母弟)を庇護。

 ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルク、カトリックに改宗。ドイツ騎士団総長マクシミリアンは世俗化した騎士団領(プロイセン公国)を奪還する。以後、プロイセン大公(カトリックを信仰する世俗国家)となる。

 プロイセンの宗主ポーランド王ジグムント3世、将来のスウェーデン王位獲得への協力を条件にマクシミリアンを承認する。

十月 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公フィーリプ死去。弟ヨハン・アドルフ、継承に際してカトリックへの改宗を拒否。但し、彼がそれまで勤めていたリューベックとブレーメンの司教領監督者の地位は剥奪される。

 ハンザ自由都市ブレーメン、大司教の帰還を拒んで破壊される。同じくハンブルクはルター派・カルヴァン派の追放(ルター派の多くは改宗)により破壊を免れる。結果として改宗の対象外だったユダヤ人が勢力を増した。孤立したリューベックはホルシュタイン公を兼ねるデンマーク王の庇護下に入り一時的に攻撃を免れる。

91年

 ヴォルフェンビュッテル公ハインリヒ・ユリウス改宗を拒み臣下から押し込めを喰らう。領地は生まれたばかりのフリードリヒ・ウルリヒに継承。(ハインリヒ・ユリウスは妻の実家デンマークへ遁れる)

 精神を病んでいたリューネブルク公ヴィルヘルム・デア・ユンゲレを廃し(翌年に死去)、三男アウグストが相続。(長男エルンストは改宗を拒んで母ドロテアと共にデンマークへ追放、次男クリスティアンは僧籍にあった)

(ブラウンシュヴァイク家には以後カトリックでないと家督相続権を失うと家法で定められた)

九月 ザクセン選帝侯クリスティアン1世死去。エルンスト系のヴァイマル公フリードリヒ・ヴィルヘルム(*史実ではクリスティアン1世の後を継いだクリスティアン2世の摂政)がカトリックへの改宗を条件に選帝侯位を回復。ルター派の拠点のひとつヴィッテンベルク大学閉鎖。これを契機に各大学はプロテスタント系の神学者の追放に動く。

 只一人の新教派選帝侯となったプファルツ宮中伯フリードリヒ4世がプロテスタント同盟を呼びかけるが機能せず。

92年

一月五日 ヴィルヘルム富裕公死去。その後継者ヨハン=ヴィルヘルムは父の寛容政策を放棄し連合公国全土にカトリック信仰を強制する。(その結果、プロテスタントの多かったクレーフェ公領に反乱が起き、皇帝領として接収)

一月六日 プファルツ選帝侯フリードリヒの叔父で後見を務めていたジンメルン公ヨハン・カジミールが死去。フリードリヒ4世は強制的に隠居となり、ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒがたなぼた的に選帝侯位を得る。

 アンハルト侯子クリスティアンは兄ヨハン・ゲオルク(ルーテル派よりだったが、弟の助命と引き換えに改宗)の元で幽閉され、分割相続の権利を剥奪される。

八月 ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム4世(賢明伯)死去。嫡子モーリッツ、改宗を拒んで相続権を剥奪される。遺領は二人の弟マールブルク方伯ルートヴィヒ4世、ダルムシュタット方伯ゲオルク1世に分割相続された。マールブルク大学(1527年に創設された最古のプロテスタント系大学)カトリック系として再興される。

93年

 ヴュルテンベルク公ルートヴィヒ死去。分家のメンペルガルト(モンベリアル)伯フリードリヒ(カトリックに改宗済み)が継承。領内の宗教政策が厳しくなる。

95年

 プロイセン大公、ポーランドの宗主権から脱し、新たに神聖ローマ皇帝の直臣となる。

96年

二月 ヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク1世死去。嫡子ルートヴィヒ5世が相続。

97年

 スイス・アッペンツェ州、カトリック派のインナーローデンと改革派のアウターローデンに分割される。

98年

一月 ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルク死去。長男ヨアヒム・フリードリヒが継承。

1603年

四月二十五日 アンスバッハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒ死去。その遺領は本家の五男クリスティアン(バイロイト)・六男ヨアヒム・エルンスト(アンスバハ)に分割相続。

 ヨハン・ゲオルク、異母弟たちとアンハルト侯領の分割相続協定を結ぶ。

04年

十月 ヘッセン=マールブルク方伯ルートヴィヒ4世死去。後継ぎが無く、甥のダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世に相続される。これによりヘッセン方伯が再統合された。

05年

 ザクセン選帝侯ヨハン死去。公国は兄の息子と自身の息子とに分割相続。選帝侯位はザクセン=ドレスデン公クリスティアンに継承される。

 マティアス、ハンガリー王に転進。フェルディナント、内オーストリア大公として親政開始。

06年

 オラニエ公フィリップ・ウィレム、コンデ公アンリ1世の娘エレオノールと結婚。

08年

 レーゲンスブルク帝国議会。(*史実では結論が出ずに閉会)

09年

 ユーリヒ・ベルク公ヨハン・ヴィルヘルム死去。義兄プファルツ=ノイブルク選帝侯フィリップ・ルートヴィヒの次男アウグストが継承。

(* ユーリヒ・クレーフェ・ベルク継承戦争)

11年

 ザクセン選帝侯クリスティアン2世死去。弟ヨハン・ゲオルクが継承。

12年

一月 ボヘミア王ルドルフ死去。新王シュタイアーマルク公フェルディナントに反対するプロテスタント貴族が反乱を起こす。ルドルフの側近クリシュトフ・ハラント反乱軍を討伐。(*史実におけるボヘミア=プファルツ戦争。ハラントは史実ではプロテスタントに改宗して反乱軍を指揮した)

18年

 オラニエ公フィリップ・ウィレム変死。遺領はブリテン王ジェームズ1世の次男チャールズに与えられる。

20年

 皇帝軍、グラウビュンデン自由国に進駐。反宗教改革を断行。

 ホルシュタイン公グスタフ・アドルフ、ブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントの娘マリア・エレオノーラと結婚。(*称号以外は史実どおり)

24年

 フランス軍の侵攻によりスイス連邦が解体。

27年

 ベルン、フランスに併合。

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