魔法医学体系
§0 前置き
病気は一つでありそれが様々な貌を持って現れると言うのが病気の全体観である。この考えによるならば、どこか一部分ではなく全身が病んでいる事になる。これに対して病気がどこか一部分の異常に帰すると言う考え方が存在する。この局在観に基づく病理学については次稿に廻したい。
§1 全体観的病理学
解剖学が発展するまでは全体観的な病理学が優勢であった。これは西方においては体液病理説として大系化された。
体液説の起源はインドにあるらしい。インドの医学「アーユル・ヴェーダ」では胆汁(ピッタ)、粘液(カパ)、風(ヴァータ)の三体液を唱えている。後に「スシェルタ」ではこれに第四の要素として血液を加えている。この考え方がペルシアを経てギリシアへ入ったときには風が外れて胆汁を黄・黒の二種類に分けて四体液とされた。
では何故”四”体液なのか。これはイオニア学派の元素説との照応であろう。四元素と四体液は相互に対応し、各々、血液=風、粘液=水、黄胆汁=火、黒胆汁=地と結びつけられている。
1−1 四元素説
四元素については以前にもふれたと思うが、此処で改めて整理しておこう。
元素説はイオニア学派の一人タレスが「万物の根源は水」であると言った事から始まる。彼の弟子や後輩達がそれを受けて空気や火を根源として挙げた。やがてエペンドクレスが更に土を加えて四元素仮説を唱える事になる。
プラトンやアリストテレスもこれを踏襲した。特にアリストテレスは四元素に湿乾・温冷という性質を加えて説明した。四元素が互いに変換可能であると言うこの原理が錬金術の根本になっている。
さてこれに対して原子(アトム)説と言うイオニア学派には存在した。デモクリトスのこの説が当時受け入れられなかったのは技術的な裏付け、つまり観測器具の未発達に因るモノであろう。ドルトンの原子説が生まれ、素粒子論に至る現代に置いては原子説が優勢と思えるが、元素説の考え方は「周期律表」として残っている。
1−2 ヒポクラテスの医学
ヒポクラテス(前460頃〜前375頃)はコス島に生まれ、アスクレピオス派に属する医師であり、後世に「医聖」として崇拝されている。
ヒポクラテスはイオニアの自然学を背景として、病気の説明から超自然的な要素を排除した。アスクレピオスの神殿治療を身近に見ていた彼は、効果は治療よりも自然(本性)に潜む力によると見抜いた。
ヒポクラテス医学では病気は体を作る成分、すなわち体液の乱れから起こるとされた。発熱や化膿といった症状は身体が体液の乱れを正常にしようとする働きの現れである。そして「悪いモノ」がやがて体外に排出される。これが「分利」(病気が快方に向かうか中の分かれ目)を誘導する。
彼の医学の考え方は、医師の仕事は自然治療にチャンスを与える事であり、これを妨げる物が有ればそれを取り除けばよい。と言うモノである。彼の医学は病気の経過を知って予後を決定する。ヒポクラテスの医学は診断の語彙を持たない「病名のない医学」なのである。
1−3 ガレノスの正典
ガレノスはヒポクラテス以来の古代医学を集成した。彼の業績によりヒポクラテスの医聖としての地位が固まったと言って良い。ガレノスは中世における医学の正典となったが、ヒポクラテスは決して廃れる事のない聖典となった。
ガレノスを生み出す基礎となったのがアレキサンドリアの解剖学なのだが、それについてはまた次の稿にて語りたいと思う。と言うのも、医学に置いて、ガレノス以来の医学(内科医学)と解剖学の流れを汲む外科医学が長い事独立して存在してきたからである。
ガレノスは「自然治癒」への信念を強めている。これにはアリストテレスの目的論や「自然にかなった生活」と言うストア思想の影響があるらしい。治療法としては食餌、マッサージ、運動を重視し、またたくさんの植物生薬を作り出した。
1−4 魔法的修正
意志の力が強く作用すると言う魔法世界の前提条件に立てば、ガレノス医学の主張する自然治癒の効果はより高いモノに成るであろう。よってこの医学を混沌的医学と呼びたい。
ガレノス医学では過剰な体液を抜くために瀉血という治療法が盛んであった。だが、混沌的医学においては不足している体液を増やす手法が開発される。