テーマ20 虚構と捏造

 さて今回の素材は再登場の荒山徹「柳生大戦争」です。

 本作は作者の時代テーマである朝鮮と柳生が余すことなく取り入れられた究極の作品と言えるでしょう。これで柳生モノは打ち止めという作者の言葉も肯けます、が…。

時代小説と歴史小説の違い

 これは何度も繰り返し自問自答している課題なのですが、さてこの小説はどちらに属するのでしょう。

 以前にもある種の回答を提示したのですが、歴史小説というのは作家が自説を展開する為の手段、明確な証拠が有れば論文になるところを、小説家の想像によって不足を埋めるという有る意味で卑怯な手口とも言えます。

 一方、時代小説は主題は別にあって設定を敢えて過去に求めたモノと言えます。忠臣蔵などは(元禄時代の話を室町時代に移して展開しています)その典型例ですね。時代小説の中で作者が独自の歴史解釈と言うか史観を披瀝していると言うケースは良くあります。多くの場合は本筋と関係のない部分なのですが、最初に見つけたのが柴練センセイの「眠狂四郎」シリーズ。過去の歴史的”事実”が現在の狂四郎の戦いに関係すると言う点で一種のギミックではあるのですが、いずれその部分だけ取り出して列記してみたいと思っています。(2011/04/09対応済み

 上手い嘘を吐くにには真実で固めるのが重要です。史実をどの程度正確に引用するかはその作家次第ですが、嘘が上手すぎて一人歩きしてしまった典型例がいわゆる司馬史観。坂本竜馬のキャラなんてまさにその最たるモノで、「竜馬が行く」は時代小説であって歴史小説ではないはずなのに、もはや坂本竜馬と言う歴史上の人物はあの小説を下敷きにして語られているのではないでしょうか。今年(2010年)の大河にしても、見ていないので断言はしませんが、司馬史観を下敷きにしてあれを如何に崩すかと言う観点で作られたのではないでしょうか。

 で素材に戻りますが、第一部で書かれた「朝鮮建国神話が捏造である」という説は、単に作品を成立させるギミックなのか、それとも作者本人がたどり着いた持論・新説なのか。ネタが日本史であれば誰でも直ぐに真偽が見抜けるのだけど、あまり日本人に馴染みのないお隣の国の歴史に関わることなのでどこまでが嘘なのか見抜き難い。

 もう一つの捏造が剣聖・上泉伊勢守の高弟・神後伊豆の正体について。この奇説に関する論拠として「キリシタン関係の文書」を明示しなかった所が作者の最後の良心と言っても良いでしょう。まあ逆に架空の文書名を書いておけば面白かった気もするのだけれど。

本歌取りと史実の狭間

 以前の稿でも書いたことですが、荒山徹という作家は実に本歌取りが上手くって、ネタなのか史実なのか分りにくいのです。本作でも但馬守の義足とか、宗冬の義歯とか。他の作品でも読んだのだけど、史料の裏付けがあるのか、それとも誰かが書いた虚構を継承しているのか。ご存じの方が居たら是非ご一報下さい。

 本作では、先行作品を大胆に引用して、半分ネタばらしになっているのですが。その辺も虚実が判別しにくい要因ですね。

やはり嫌韓小説か?

 本人は日韓友好を望んでいる。と明言していますが、これを読んで韓国人を好きになる人が果たしているでしょうか。

 昨日までの敵に身を投じて自国を滅ぼす。と言うのは現代人から見れば唾棄する売国的行動なのだろうけど、前近代の国民国家以前の社会では国への帰属意識はそれほど強くなかったはずで、日本人だって秀吉の朝鮮戦役で敵方に投じて戦った兵士が居たのですから。

 朝鮮民族にそうした傾向が顕著に見られるとすれば、国が人民を守ってくれなかったと言う不幸な歴史に起因するのでしょう。陸続きにあんな同化力の強い文化が有って、文化的独立を維持してきたのはむしろ驚異ですね。

 なにか朝鮮人に対して同情的な論調になってきたましたが、昨今の反中感情の高まりが起因しているのかも知れません。敵の敵は味方と言うけど、日韓が敵対して喜ぶのは誰か。そう考えると作者の意図は少しだけ成功したと言えます。

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