テーマ12 柳生嫌韓流

 今回の素材は荒山徹「十兵衛両断」、その中でも特に柳生十兵衛を扱った二編(表題作「十兵衛両断」と「剣法正宗遡源」)を扱います。

 これより以前にデビュー作である「高麗秘帖」を読んで、ネタにしようと思いながら適当な切り口が見つからずに放置していました。作者の立ち位置が、具体的には朝鮮人に対する好悪が、判然としなかったのが纏まらなかった最大の理由です。

 が、「十兵衛両断」を読んで確信しました。留学中に何があったんでしょうかねえ。

山田風太郎+隆慶一郎=

 面白いと言う評判は聞いていたモノの、なかなか手に取る機会が無かった。理由はいろいろあるが、山風作品を読み尽くすのに忙しかったと言うのが正直な所である。紛い物なら読まない方が良い。山風作品を読み尽くしてみて、その正統な後継者は魔界都市の先生(=菊地秀行)であるという確信を深めていた事もあった。(山風に行き着いてからは「魔界都市」もご無沙汰していたが)

 そんなある日、某量販古本屋にて「高麗秘帖」をゲット。軽い気持ちで読んでみた。普通に面白いけど、山風作品とは何かが違う。そもそも、何で朝鮮なのだろうか。(この時点で、作者が半島ネタを得意?としていることは知識としてあった)

 そして「十兵衛両断」。5編の短編が一つに纏まったこの本は柳生をネタに書きまくった隆慶一郎の匂いが確かに感じられた。でも山風色はやはり薄い。確かに影響(と言うかリスペクト)は感じるが。

 「十兵衛両断」とその後日談である「剣法正宗遡源」は明らかに山風の代表作である「十兵衛三部作」に対する別解である。

 今回はネタバレはしないつもりであったが一つだけ。朝鮮の妖術師に魂を取り替えられた十兵衛が、修行の果てに彼本来の相貌を取り戻すと言う過程が非常に山風的に見えた。長編「伊賀忍法帖」や短編「忍法小塚ッ原」に見られる首の交換がもたらした結果、また「忍者明智十兵衛」で土岐弥平次が十兵衛の怨念に冒されてその相貌も変質させていった様が思い起こされた。

嫌韓小説として

 随所に見られる作者の朝鮮人観は、まさに嫌韓と呼べるモノである。

 「崇文侮武」の風潮程度なら文化の違いで済むかも知れないが、日本の剣術は朝鮮起原であると言う主張がまさしく妄言である。こんな妄言に対して反論を求められた柳生宗冬は気の毒という他はない。この妄言に諸手を挙げて支持する儒者林羅山は「サヨク知識人」そのものであり、日朝友好のために適当に聞き流せと諭す松平伊豆守は「国際派政治家」のそれである。

 それにしても、柳生十兵衛=柳十衛とか、上泉信綱=泉信綱とか、同じ表記文字を使っているが為に、ちょっと弄ると朝鮮風の名前に成ってしまうところが笑える。十年もすると、この小説も「剣道朝鮮起原説」の根拠にされてしまいそうである。上泉伊勢守は元々は秀綱で、武田晴信の片諱を貰って信綱と改めたのだ、と知っていれば引っかかるはずもないが。(上泉を神泉と表記しているのは一種のブービートラップかも知れない)

本歌取りと偽典

 先人の作品を取り入れることは一つの教養として認知される。これはさじ加減が難しく、過ぎると盗作と罵られ足りないと気付いてもらえない。気付かれないと意味のないモノもあるが、ごく一部だけが判る隠し味としても使える。

 山風は本歌取りの名人だったが、荒山作品にもこの本歌取りが随所に見られる。この点では衣鉢を継いでいると言えるが、嘘っぽさの度合いはむしろ半村良かも知れない。山風は設定が嘘くさい分、史料では嘘を吐かないからなあ。

蛇足

 読んではいないが、荒山作品は陰陽師にして新陰流の達人という柳生友景を無敵の魔法剣士を主人公にして展開している。山風→隆慶と来て第三段階(菊地秀行化)へ移行したらしい。悪くはないけど、このパターンは強さのインフレーションが起きて飽きるんだよなあ。

題材

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