余 その後の賤ヶ岳七本槍
一部は別稿で紹介済み。
本人達の武勇は認めるとしても、この二人の抜きん出た出世は秀吉と縁続きであったことが大きいと思われる。だからこそ逆に秀吉の死後に生き残れなかったとも言えるが。
弐 巧妙な立ち回り 加藤嘉明と脇坂安治
嘉明は元々三河の生まれで、彼の父は例の一向一揆で三河を追われた口である。但し、出戻った本多正信と違い、彼は秀吉に使えてまず頭角を顕した。してみれば徳川に仕えるのは旧主への復帰でもあり、上の二人ほどには矛盾を感じなかったかも知れない。
結果的に二代目が家を潰したが、その名跡は孫に引き継がれ幕末まで諸侯として生き残った。
一方の安治は、出世では七人の中のちょうど真ん中で、言ってみれば可もなく不可も無しであった。関ヶ原では東軍に寝返って生き残りを果たし、子孫は譜代格を得て幕政にも参画している。
脇坂家は幕末にも間一髪で乗り換えに成功している。
参 不器用な人々 平野長泰 糟屋武則 片桐且元
長泰は只一人大名になれず、関ヶ原では旗本として徳川軍に参加している。その不遇故か大坂陣では大坂方に味方しようとしたが、江戸に留め置かれた。(その点では正則や嘉明も同様だが)江戸期を五千石の交代寄合として過ごすが、幕末にいたって高直しで駆け込みで諸侯に列する。
武則は唯一関ヶ原で西軍に付き、改易されている。
且元は秀吉生前はさほど優遇されず、関ヶ原の後一大名に転落した豊臣家の付き家老的な位置づけをされた。その意味で彼を真に取り立てたのは家康であると言える。その後の流れを見れば与しやすかったからかも知れないが。
大坂の陣で加増されているが、子孫は元禄にいたって無嗣断絶。弟貞隆系が幕末まで生き残った。