逆十字サイクル
「砕かれざるもの」にて柳生友矩の死に方の四番目のケースが描かれました。これはどう解釈しても他のサイクルに置くことが出来ない。ということで第四のサイクルとして逆十字サイクルを設定します。逆十字と言うのは「砕かれざるもの」に流れる反切支丹色をイメージした命名です。(単に他のサイクルと違ってタイトルやヒーローの名前をそのまま使い難いという事情なのですが)
逆十字サイクルの解釈論 砕かれしもの
古代
殷の紂王の叔父箕子、周の武王によって朝鮮に封じられる。箕子、殷に伝わる太陰石を持ち去る。以後、太陰石は平壌を領する朝鮮の各王国(高句麗・新羅・高麗・李氏朝鮮)によって継承される。(「魔岩伝説」)
応永26年
李朝四代世宗、倭寇撲滅のため対馬を襲う。(応永の外寇)
応永27年
回礼使に同行して羅世田が来朝。(「魔岩伝説」)
羅世田、松平信重の入り婿となり松平太郎左衛門親氏と名乗る。(「魔岩伝説」)
大永6年
松平清康、新田流得川氏の庶流世良田姓を称し世良田二郎三郎を名乗る。
永禄9年
家康、姓を松平から徳川に改める。羅世田の本貫地(平安道徳川)にちなんだもの。(「魔岩伝説」)
慶長10(1605)年
家康、伏見にて朝鮮使節と会見。家康、宗矩に命じて剖棺斬屍を実行させる。(「柳生外道剣」)
4月 家康、征夷大将軍を秀忠に譲る。
9月 疋田豊五郎景兼、大阪で没。
慶長11年
4月 柳生石舟斎死去。
慶長12(1607)年
第一回朝鮮通信使(正式には回答兼刷還使)。太陰石の受霊に関する打ち合わせ。(「魔岩伝説」)
元和2(1616)年
天海、家康の遺骸を日光に移す。将来太陰石を破壊するための布石の一つ。(「魔岩伝説」)
寛永元(1624)年
第三回朝鮮通信使(正式には回答兼刷還使)。東照宮の視察。(「魔岩伝説」)
寛永9(1632)年
1月 大御所秀忠死去。
将軍家光、前田家の取りつぶしを計画。密かに帰国していた高山右近・内藤如安が第三勢力として暗躍する。(「砕かれざるもの」)
10月 駿河大納言忠長改易。
寛永11(1634)年
寛永大造替(〜13年)。朝鮮からの指示で規格に合わせた改修。(「魔岩伝説」)
寛永12(1635)年
柳川一件。
十兵衛、密命を帯びて欧州へ渡る。(「友を選ばば」)
寛永13(1636)年
4月 十兵衛、フランスでダルタニャンと協力してケルトの復活を阻止する。その後、天海より命じられた密命を果たして帰国の途に着く。(「友を選ばば」)
8月14日 但馬守、4千石を加増され大名に列せられる。
10月6日 第四回朝鮮通信使、対馬に到着。東照宮の再検分。(「魔岩伝説」)
寛永14年
10月 島原の乱。
寛永20/承応元(1643)年
第五回朝鮮通信使。本来の目的である太陰石の霊力を家康の遺骸へ分与を果たす。(「魔岩伝説」)
11月 天海大僧正入寂。
承応3(1645)年
守澄法親王、天海の遺命により日光貫主に迎えられる。
寛文6(1666)年
五代目半蔵筌堂塔太郎、オランダ女性ミランダの懇願により朝鮮に渡る。オランダ人ヘンドリック・ハメルら八人が朝鮮を脱出して五島にたどり着く。(「阿蘭陀くノ一渡海」)
元禄15(1702)年
烈堂義仙没。その死とともに裏柳生も役割を終える。(「魔岩伝説」)
宝永5(1708)年
家宣が6代将軍に就任。その剣術指南であった村田久寿、本城小姓となる。
正徳元(1711)年
第八回朝鮮通信使。
通信使について疑念を抱いた新井白石、待遇を改定し大君の称号を日本国王に戻す。
林大学頭信篤や雨森芳洲の猛反発を受ける。
正徳2(1712)年
旗本村田久寿、柳生姓を受ける。このとき朝鮮通信使に関する役割も移管されたと思われる。(「魔岩伝説」)
享保4(1719)年
第九回朝鮮通信使。吉宗、通信使を事故の権威付けに利用すべく白石の改革を白紙に戻す。
白石、吉宗と対立し幕閣から追われる。
通信使の廃絶を目指す白石党が結成。(「魔岩伝説」)
寛延元(1748)年
第10回朝鮮通信使。通信使の維持を目指す林家・村田柳生と白石党の暗闘。(「魔岩伝説」)
宝暦8(1758)年
宝暦事件あるいは竹内式部一件。
宝暦14/明和元(1764)年
通信使派遣を前に白石党に対する大粛清が行われる。(「魔岩伝説」)
第11回朝鮮通信使。対馬の通詞鈴木伝蔵、都訓導・崔天崇を殺害したとして刑死。一説には天崇は朝鮮人参密売の罪が発覚することを恐れての自殺。白石党であった伝蔵を陥れる陰謀。(「魔岩伝説」)
白石党の党首永井筑後守直令、鈴木伝蔵の遺児を引き取り実子として育てる。(「魔岩伝説」)
明和4(1767)年
明和事件。
永井直令の四男金四郎、遠山景好の養子となる。
並木正三、鈴木伝蔵の一件を題材にした歌舞伎「世話料理鱸包丁」を書く。
明和7年
遠山景好に実子誕生。
天明6(1786)年
景晋、遠山家を相続。
寛政元年
松平定信、老中主座となる。(いわゆる寛政の改革の始まり)
定信、朝鮮との国書交換を対馬で行うよう命じる。朝鮮側が合意せず、通信使が滞る。
寛政4年
大黒屋光太夫、ロシアより帰国。
寛政5(1793)年
景晋に実子誕生。
寛政6(1794)年
景晋、養父景好の実子景善を養子にする。
文化4(1807)年
目付遠山景晋、朝鮮人来聘御用係に任じられる。
文化5(1808)年
フェートン号事件。長崎奉行松平康英切腹。
文化6(1809)年
遠山景晋、対馬にて朝鮮使節と交渉。通信使聘礼を取り付ける。僧晏仁(伝蔵の同僚)を連れ帰り息子景元に朝鮮語を学ばせる。(「魔岩伝説」)
文化8(1811)年
2月 対馬藩邸に鈴木伝蔵を名乗る謎の人物が出現。(「魔岩伝説」)
遠山景元、朝鮮娘とともに朝鮮に渡る。柳生卍兵衛と林耀蔵、これを追跡する。(「魔岩伝説」)
5月 第12回朝鮮通信使。対馬にて国書交換を行う。
12月 景元、太陰石を見る。(「魔岩伝説」)
洪景来の乱。
文化9(1812)年
2月 遠山景晋、長崎奉行に転出。
4月 一揆勢の篭る定州城落城。
景元、輪王寺門跡を頼る。(「魔岩伝説」)
12月 霊童と化した春香、日本に送られる。(「魔岩伝説」)
12月30日 日光大楽院で失火。太陰石破壊の余波。(「魔岩伝説」)
文化11年
遠山景元、旗本堀田伊勢守一知の妹けいを娶る。
文政3(1820)年
林耀蔵、鳥居一学の婿養子となる。(翌年家督継承)
天保8(1837)年
遠山景晋没。
天保11(1840)年
遠山景元、江戸北町奉行に就任。
天保12年
鳥居耀蔵、南町奉行になる。