砕かれしもの

 大戦争サイクルから弾かれた作品について。

§1 韓人徳川家康

  「魔岩伝説」と「徳川家康」では徳川家康が韓人であるという共通点がある。より正確には「魔岩」では徳川家自体が韓人の子孫なのに対し、「家康」では関ヶ原以降身代わりを務めた影武者が韓人ということになる。当然ながら両作の設定は整合しない。

 以前はこれを無理矢理つじつまを合わせようとしたが、それはサイクルを三つに収めようとしたからであって、第四のサイクルの存在が明らかな状態では両者は別次元と考えるしかない。どちらの作品を大戦争サイクルから弾き出すかとなれば、他作品との整合性から見て「魔岩伝説」という事になる。

 さて改めて「魔岩伝説」と「砕かれざるもの」との整合性はどうだろうか。家康は「魔岩」で太陰石の力によって徳川家の天下を維持する手立てを講じた。一方で「砕かれざるもの」では己の来世に付いての恐怖から切支丹に改宗した。二つの欲求は共存しないことも無いだろう。

§2 外道剣

 サイクルの拡大によって弾き出されるべき作品がもう一点ある。それが「柳生外道剣」である。これは「柳生大作戦」を大戦争サイクルに取り込むときに見過ごしていたのだが、柳生家の歴史が天武時代まで遡って設定されたことにより、上泉伊勢守との子弟逆転が発生し、故に「外道剣」のオチと整合しなくなっていたのである。

 「大作戦」を大戦争サイクルから外して逆十字サイクルへ移動する手もあるのだが、そうすると残りの二本の解釈論も破棄しなくてはならない。と言う訳で被害の少ない「外道剣」外しという選択を取る。

 剖棺斬屍を実行し柳生の剣を外道に落としてしまったことで、柳生家は「魔岩伝説」で描かれた太陰石の受霊計画に否応無く荷担させられていった。更に「外道剣」における秀吉に対する剖棺斬屍も徳川家が韓人の系譜であったとすれば、無理の無い事件と言える。そしてこの行為が死に行く家康の後悔の念を強めて切支丹への改宗という愚挙に走らせたとすればより整合性が増す。

§3 家康対天海

 改めてこのサイクルを俯瞰すると見えてくるのが家康対天海という構図である。「魔岩伝説」において、最後に太陰石の魔力を打ち砕いたのが天海の打った布石。一方で「友を」で十兵衛を送り込んで行ったイエズス会の呪殺。天海にこれを行わせたのは「砕かれざるもの」で判明した家康の切支丹改宗であったと考えれば辻褄が合う。逆十字サイクルはある意味で家康と天海の暗闘であったということも出来るだろう。

 天海は荒山作品では意外なほど出番が無い。「魔岩伝説」も「砕かれざるもの」も名前だけで登場はしない。唯一登場するのが「魔風海峡」なのだが。これも精査するとどうやらこのサイクルに分類されそうなのである。

§4 魔風海峡

 朝鮮における宇喜田軍営の怪異が「魔風海峡」と「陰陽師・坂崎出羽守」の両方で登場する。状況はそっくりなので当初は同じ時空の事件として扱っていたのだが、再検証してみると別時空の事件とするほうが自然である。弾かれるのは言うまでも無く「魔風」の方。元々「魔風海峡」を友景サイクルにいれたのは消去法による類推だったので、第四のサイクルの登場により無理なすり合わせは不要と言うことになる。

 唯一の懸案は服部半蔵の役割なのだが、「魔風」において生き延びた臨海君(大戦争サイクルでは死亡が確定)に従っているのが二代目半蔵であるのは動かせない。となれば切支丹として殉教した半蔵は三代目を継いだ弟の方と言うことで問題ない。

 魔風海峡で衝撃的だったのが秀吉の霊統。その一つが聖徳太子。華夷秩序からの独立を宣言した国書と征明、太子の摂政に対して秀吉の関白。そして遺児の非業の死。そして忠臣の名がともに”三成”と言う偶然(よく見つけたなあと思う)。しかし太子の名である”とよとみみ”と秀吉の与えられた姓”とよとみ”のこじつけは酷い。いや逆を言えばこれは豊臣姓に組み込まれた呪いであったのかもしれない。

 これに比べると百済王豊璋と言うのは、探り出した朝鮮妖術師本人には衝撃的でも共通点は少なくていささかインパクトに掛ける。そもそも百済人の血統は(秀吉の時代にあってすら)既に日本人の一部になっていて、彼らを朝鮮人とするのは無理がある。

 これに付いては後の作品で百済復活をネタとして使っているから半ば確信犯的なのだろう。日本と朝鮮は互いに最も近しい民族であり、その対立も所詮は近親憎悪だということだ。

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