忍法帖謎解録 甲賀卍谷の系譜考 不戦の約定について
考察壱 織部と弦之介
甲賀織部*1は天正八年時点で二十三歳、一方の甲賀弦之介*2は年齢の記述はないが慶長十九年時点で恐らく二十歳前後であろう。両者の年齢差は四十以上であり、親子と言うのは年が離れすぎている。織部を弦之介の祖父と見て織部=弾正という線もない。織部は「女あしらい」しか能のない凡庸な忍者とされているのだから。
第一、織部が弾正ならお幻との恋は悲劇にならなかったであろう。
考察弐 織部と弾正
改めて織部と弾正の関係を考えよう。
以前の考察では親子だと断定したのだが、改めて考えると南蛮寺との抗争に弾正が登場しないのが奇妙である。弾正がいれば荒晒野雄太夫の専横はあり得ない。これはもう、弾正が不在であったとしか考えようがない。不在の理由は、やはりお幻との悲恋が理由と考えるのが自然であろう。
二人の悲恋の際、伊賀鍔隠れ谷と甲賀卍谷は敵対関係にあった。つまりその時点では半蔵による”不戦の約定”は存在しなかったと考えられる。二人の恋が約定以後で有れば弾正とお幻の婚姻もあり得ただろう。
推論壱 弾正は恐らく織部の兄で、伊賀の女との密通により里を追われていた。
考察参 約定の成立
不戦の約定はいつ頃成立したのか。
これが初代半蔵の命じたモノであることは確かだ。半蔵は伊賀の土豪であるが、その力が甲賀に及んでいたかどうかは定かではない。徳川に甲賀組が出来たのは元亀の頃*3となっているが、信玄の影武者の探索*4に送り出されたのはすべて伊賀者であったしこの時点では卍谷は半蔵の威に服しているとは思えない。
更に、伊賀の服部郷は天正四年に信長によって壊滅*5しており、伊賀はともかく甲賀に対する影響力はこの時点では薄いだろう。
史実に於ける北畠信雄の伊賀攻めが天正七年。続く信長による伊賀攻め、いわゆる天正伊賀の乱が二年後の九年である。信長がすぐに伊賀攻めに踏み切れなかったのは卍谷と荒晒野による抵抗運動の所為とも言える。そしてこの信長と卍谷の対立が半蔵の付け目となった。家康が上方見物をしている間に陰で半蔵が甲賀と接触していたのではないか。
推論弐 約定の成立は本能寺の前後。そして、約定の成立により里を離れていた弾正の帰還が叶ったと思われる。弦之介の父となる子供はこの放浪中に誕生したのであろう。
蛇足 甲賀組の誕生時期
以上の推論から、元亀の頃の甲賀組成立時期も絞り込める。と言っても元亀年間は元々短いのだが、最有力は徳川軍が近江に居た時期、つまり姉川合戦のあった頃であろう。
*1 甲賀南蛮寺領
*2 甲賀忍法帖
*3 忍びの卍
*4 信玄忍法帖
*5 忍法剣士伝