比較歴史学 第十講 建武の新政と寛政の改革

 逆説の日本史15〜17巻を読んでの感想。のようなもの。

§1 尊王論

 尊王論とは儒学に由来し、武力(覇道)をもって支配する覇者に対し、徳(王道)をもって支配する王者を尊ぶ思想である。

 後醍醐天皇がこれを倒幕の理論として打ち出したのであるが、彼の本音は自身の子孫によって皇統を独占したいと言う私欲であった。当時皇統は後深草天皇の持明院統と亀山天皇の大覚寺統とに分裂しており、更に持明院統から後伏見天皇と花園天皇、大覚寺統から後二条天皇と後醍醐天皇と言う四分裂に至っていた。

 そんな中で後醍醐天皇自身は弟系(大覚寺統)の弟と言う四番目であり、とても正統は主張できなかった。そこで自己正当化の目的として宋学の尊王論が持ち出されたのである。両統迭立を調停したのは鎌倉幕府であり、これを打ち砕くには鎌倉幕府を倒すしかない。というのが彼の短絡的な発想であった。この調停案が無ければ彼は皇位に就けなかった。なんてことは彼の頭には無かっただろう。

 皇統独占と言う当初の目的が果たされたら、足利尊氏に幕府を開かせて後ろ盾にすればよかったのに、かれは目的と手段を転倒させた。尊王論に立脚する限り幕府と言う覇者を認めるわけにはいかなかったのだ。

 かくして宋学の毒は天皇の価値をこの上なく貶める後遺症を残した。

§2 理想主義

 宋学は文字通り中国の南宋の時代に生まれた新儒教である。儒教自身が過去を美化する傾向にあるが、宋学は異民族に華北を追われたと言う負い目から現実逃避の理想主義に陥った。現実よりもあるべき姿を重んじるあまり、歴史そのもを改竄してしまうと言う悪癖が生じたと言う。

 それが宋学のもう一つの柱である攘夷論と結びついて害を成したのが幕末の江戸時代になる。外国人を野蛮人とさげすむ思想が、鎖国を家康以来の祖法であると言う捏造を生み、外交上の不手際を生じさせた。その結果として穏便な開国路線を取れず、ペリーの艦砲外交による強制開国へと追い込まれてしまった。

§3 貴穀賎金

 江戸三大改革は儒教思想に基づく限り成功は見込めなかった。その害悪は商人蔑視・貴穀賎金に起因する。家康は関東に幕府を開くに際して先人である頼朝をある程度参考にしたようだが、重農主義政策も関東を基盤にする限りは必然であったのかもしれない。そして開幕当初はそれで通用したのだが。

 田沼意次は様々な悪評もあるが、重商主義へと舵を切ろうとした点は評価できる。しかしその改革を潰した政敵松平定信によって全てが否定された。意次から定信への「政権交代」は前政権の全否定に終始し、何ひとつ実績を残せなかった。これは三年半の民主党政権時代を髣髴とさせるが、現代の民主政治のありがたいことに、再度の政権交代によりかつての路線へと軌道修正が図られつつある。しかし定信による意次否定は、幕府の再生機会を永遠に失わせた。

 宋学の毒は長年かけて蓄積し、遂に江戸幕府を滅亡に追いやったのだ。

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