比較歴史学 第九講 藤原氏と北条家

 天皇家と言う日本唯一の宗族システムを創造した藤原氏と日本独特の覇者=武家政権を構築した北条家。これはもしかすると日本史についての根源的な回答かもしれない。

§1 世界史の例外

 日本の常識は世界の非常識と言われるが、日本史の最大の特徴が世界に類をみない”万世一系というシステム”である。これは家父長制の一種であるが、男系限定である点で日本特有の相続制度である。この制度は先史以前からの慣習法、では無く建国時に定められた成文法。自身の息子に皇位を継がせたい持統女帝と藤原家の権力を確立したい藤原不比等の野心が融合して生まれた発明である。

 女帝の意図は天孫降臨に現れている。女神である天照大神の孫が地上を支配する。これは持統天皇とその孫文徳天皇の関係の投影に他ならない。天照は元々は男神であり、女帝の都合によって性転換されて天皇家の祖霊神とされた。(これを思うと「古代女性は太陽であった」と言うフェミニズムの言葉は失笑モノと言えよう)

 一方の不比等の意図は、藤原氏の祖霊神が降臨する天孫のお供として描かれていることに現れる。この設定により、藤原氏は天皇家の影であることを余儀なくされ絶対の忠臣たることを宿命付けられる。逆に天皇家が安泰であれば、藤原氏も繁栄を約束されているとも言える。

§2 宗族と氏姓

 宗族というのは父系同族集団のことであり、これは儒教体制の前提条件となっているのだが、日本ではこれが完全に整わないうちに儒教を取り入れたため本家とは異なる独自の家族制度が発展している。

 本家の宗族というのは父系による族譜を整備することで同族不婚、すなわち近親婚を避けるために存在する。よって養子を取る場合にも父系で繋がっている男子を探すことになる。しかし日本の家制度は財産継承のために存在し、直系が途絶えた場合には母系で近い子供をまず優先する。あるいは跡取娘に婿を取るという継承も容認される。

 何故か皇位継承だけがこの日本的家制度の例外になっている。その理由は天皇家が日本で唯一血統原理で規定される宗族であるからだ。つまり天皇家は日本で唯一女系継承が認められない家系なのである。であるが故に、天皇家と繋がる源平両氏が貴種として武家政権を築くことが出来た。この構図は天孫降臨と同じである。

§3 関白と執権

 藤原氏は天皇家の外戚となることで権力を手に入れた。がその優れた点はその権力を摂政関白という職によって具体化させたことにある。より正確には摂政という職は以前からあり、藤原氏が創造したのは関白の方になるが。

 頼朝の鎌倉政権は征夷大将軍という職によってその実体を得た。が源氏将軍は三代で途絶え、鎌倉幕府を象徴する職は北条家が世襲した執権になる。政権のトップである天皇ないし将軍は権威だけの存在ととなり、実際の運営がナンバー2によって成される点が如何にも日本的である。

 摂関政治の完成とともに摂政・関白の職は特定の家柄が占めるものとなる。これにより天皇の外祖父と言う私的な立場が消滅し、摂関政治の空洞化を招く。摂関の地位はいわば表の権力であり、摂関家の力の根源はその公的な立場を利用して構築された荘園という私領にあった。しかし力による支配を否定したことから武士階層が台頭を始める。

 武士階層の利益を守る存在として鎌倉殿の権力が確立した。平家政権は武家が公家の犬であることを否定したが、新たな統治システムの構築に失敗し、旧勢力である公家階層からも自身がかつて属していた新興勢力である武家階層からも背かれて滅亡した。鎌倉幕府の諸制度はその反省から生まれており、将軍すらその機能の一つでしかなかった。天皇機関説ならぬ将軍機関説とでも言えば良いだろうか。

§4 御恩と奉公

 鎌倉政権は律令体制に対するアンチテーゼとして生まれた。その根幹は土地制度にある。

 律令制度は全ての土地と人民を天皇が支配するいわゆる公地公民制である。しかしこれでは人口の増加とともに機能しなくなる。土地が有限なのに、人民は増えていくからだ。土地を増やす最も簡単な方法は奪う、だが島国ではそれも限界がある。その代わりに開墾と言う方法が取られる。上から与えられたものならともかく、自分で開墾した土地であれば自分のものにしたいと言うのが当然である。よって土地の私有化がなし崩し的に法制化される。そしてその土地は次第に藤原家へと集まっていくことになる。おそらくこれが律令制度を導入したときからの計画であったのだろう。

 鎌倉殿は武士たちの土地所有を認める代わりに兵力の供給を受ける。これが御恩と奉公と呼ばれる日本的封建制の主従契約であるが、これは明らかに違法・脱法である。しかし自前の武力を持たなかった朝廷はこれを追認するほかなかった。鎌倉殿の御家人達がこのときに獲得したのは収穫の5%の徴税権であったが、これは朝廷と幕府と言う二つの政権が並立したことを意味する。

 鎌倉幕府は武家の慣習を法制化して御成敗式目を制定した。律令が大唐から輸入した継受法であるために日本の実情に合わない部分を修正して使っている。これも武家限定とは言え、律令の修正条項に過ぎない。これは一種の解釈改憲とも言えるが、新たな法によって古い法を無効にするローマ式と見ることも出来るだろう。

§5 王者と覇者

 武家政権は何故天皇を滅ぼさなかったのか。第一に皇位継承が血統原理によって定められたために簒奪が不可能であった。そして天皇制を配して別の制度を作り出す革命の論理をついに日本人は見出さなかった。孟子の放伐論もマルクスの共産主義も日本では多数派を形成できなかった。天皇制は既日本人の文化そのものになっていたのだ。

 文明には優劣があるが、文化には優劣は無くただ多様性があるのみ。日本は西洋文明は受容したが、日本の文化はそのままで残されるべきである。天皇制はその中でも一番に挙げられるべきモノであろう。

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