比較歴史学 第八講 平治の乱と本能寺の変

 大河ネタ第三段。前講の続き、つまり保元の乱の帰結としての平治の乱。対して応仁の乱の終焉としての本能寺の変と言う構図。

§1 テロリズム

 保元の乱から平治の乱への間は短期間であり、それは革命に対する反動として発生した。つまり平治の乱によって政権を握った信西の急進的改革に対する旧勢力の反撃であった。源義朝の挙兵と言うのは単なる宮中テロであって、平家打倒などと言うものではない。これは後に義朝の息子頼朝が天下を取ったことから来る逆算であって、これはいわゆる”源平合戦”の始まりなどではない。そもそも作戦の総司令官は陸奥守信頼であって義朝ではないのだから。

 本能寺の変と言うのは平治の乱の初期局面である信西の討伐に対応する。急進的な改革(保元新制)を推し進める信西が信長、それに抵抗してこれを討った反動勢力が光秀、そして熊野詣をしていた都を留守にしていた清盛が秀吉と言う具合になる。

§2 誤算

 光秀の誤算が秀吉の大返しだったように、反信西派もまさか清盛がこんなに早く京に戻ってくるとは思っていなかっただろう。義朝らの挙兵はあくまでも宮中クーデターを目指した隠密作戦であったので少数精鋭臨んでおり、この清盛のすばやい動きに対応できていない。もし十分な兵力があれば、清盛の入京を阻止することも、あるいは六波羅を襲って清盛の妻子を人質にしてしまうことも出来たはずだが、常備軍でない当時の武士団にそれを望むのは酷であろう。

 動員の遅れは光秀も同じ。信長暗殺を最重要目的としたために、周囲の武将への根回しで後手を踏んでしまった。信長が本能寺に火を放って自身の死体を焼いてしまったことも大きく影響している。つまり信長の死を確定情報として提示できなかったことが光秀の調略を遅滞させてしまったのである。

§3 逆襲

 清盛の入京によって軍事バランスが崩れると、元々寄り合い所帯だった反信西派は分裂する。二条親政派が清盛と接近して、二条帝を連れて六波羅へ逃げ込んだ時点で勝負は決した。信頼は乱の主犯として斬首。そして落ち延びた義朝の末路は落ち武者狩りの手に掛かった光秀とそっくりです。(時系列で言えば義朝の方が先ですが)

 信頼を見限った源頼政は、光秀に呼応しなかった細川親子かあるいは筒井順慶か。まあ頼政は二条親政派との関係で参加したので、二条帝が離脱すれば彼も離れるのが道理。同じ源氏なのに、と言うのは源平抗争史観に捕らわれている証拠で、義朝が河内源氏で頼政は摂津源氏。遡れば同族ではあるけど別に地獄までお付き合いするほど親密な関係ではない。

§4 蛇足

 保元の乱の戦後処理として清盛が頼朝らを助命したことが平家の将来に禍根を残したといわれるのだけど、そもそも平治の乱の直後の清盛に彼らを”許す”権限があったのか。この話は後に頼朝や義経が平氏を滅ぼしたから言われることであって、平治の乱の処罰はもっと上の方で決められたのでは無いだろうか。公家と言うのは元々血を見るのが嫌いで、子供まで殺すような果断さとは無縁の存在。保元の乱の事後処理もおそらく信西入道の独断と思われる。その果断さが平治の乱で自らの命を縮めたのだとすればなんとも皮肉である。

戻る