比較歴史学 第七講 保元の乱と応仁の乱

 大河ネタ第二段。

 保元の乱は短期決戦、応仁の乱は長期戦と、戦いの様相こそ全く異なりますが、戦いをもたらした状況とその結果を見れば実に見事な相似形を示します。

§1 初期状況 

 まず保元の乱。後白河天皇と兄崇徳院の対立。これは本人同士の確執と言うより亡き父鳥羽院が引き起こしたこと。崇徳は一説には白河院の胤で、故に鳥羽院から叔父子(白河院は鳥羽院の祖父なので血統上は叔父になるという意味)と呼ばれて嫌われていたとされるのですが、実際には新しい寵妃である美福門院が生んだ体仁親王(近衛天皇)を即位させたかっただけでしょう。これだけならまだしも、近衛天皇が皇太弟として即位としたことで将来の院政の可能性を潰されたわけです。

 鳥羽院が崇徳を叔父子と呼んで嫌っていたと言うのは「古事談」によるものですが、これは一種の暴露本で実は真偽不明。しかし、待賢門院は崇徳院のほかにも四男二女を生んでいるわけで、三つ疑惑のある女性をそんなに寵愛しますかねえ。察するに叔父子説は鳥羽院と崇徳院の不仲を説明する後付けの理屈なのでは無いでしょうか。実際の理由は鳥羽院の寵愛が若い美福門院に移ったこと。彼女の生んだ体仁親王を天皇にしようとしただけ。この結果美福門院は九尾の狐の化身と言われる玉藻前のモデルと成るのですが、客観的に見れば全ての元凶が鳥羽院にあるのは明白でしょう。

 次に摂関家。子に恵まれなかった関白忠通は一度は異母弟頼長を養子にしますが、後に実子が生まれたのでこれを破棄。自分の子に後を継がせたいのは誰しも思うことでしょう。頼長も黙っては居ません。近衛天皇に娘を嫁がせて巻き返しを狙いますが、肝心の近衛が夭逝。そこで後継として白羽の矢が立ったのが後白河ではなくその息子守仁親王。後に大天狗と呼ばれる後白河ですが、当時の風評は只の放蕩児でした。結局は守仁の成人待ちということで守仁の立太子とセットで中継ぎの形での即位となります。

 この崇徳と鳥羽の親子対立が、父の死とともに一気に噴出したのが保元の乱と言うことになります。

 一方の応仁の乱。こちらは将軍継承問題と畠山家の家督争い。それぞれ細川勝元と山名宗全という有力な後見が付いての内紛ですが、勝元と宗全も義理の親子と言うややこしさ。

 ただし応仁の乱では騒動の元凶である将軍義政が健在であると言う点が異なります。裏を返せばこの義政の優柔不断な行動が応仁の乱を長引かせた最大の要因といえます。

§2 鳥羽院と将軍義政

 ということで乱をもたらしたキーパーソン二人を比較してみましょう。

 月満ちれば欠ける。鳥羽院と義政はともに完成に至った政治体制を引き継いで、その衰退を招いた凡才であったということ。

 院政を完成させた白河院。しかしこの政治体制は治天の君と称された独裁制であり、独裁制の優位性とは唯一人の決定であるがゆえの即断制。故に良くも悪くも独裁者は果断さが求められるのですが、鳥羽院にはそれが無い。一番やってはならないのが一度決めたことを覆すこと。第一に崇徳を皇位から引き摺り下ろしたこと、更にその後を継がせた近衛を初め崇徳の皇太子扱いで即位させるといいながら皇太弟に変更して崇徳の将来をも奪ってしまったこと。

 室町幕府の全盛期を築きながら、暗殺によってこの世を去ったため結果的にその衰退をも招いたのが六代義教。彼が確立した将軍独裁体制は幼い息子達にはあまりに荷が重すぎた。更に将軍を継いだ兄義勝がわずか二年で亡くなってしまったために、帝王教育すらなされぬままに後を継いだのが八代義政。

 こちらは政治権力に執着した鳥羽院とは真逆で、一刻も早く政治から足を洗おうとして、結果として事態の混乱をもたらします。出家していた弟に将軍を譲るといって還俗させながら、実子が出来たら妻の突き上げに動揺する。

 ともに独裁権力をもちながら、果断な決断が出来ず戦乱を引き起こした無責任な権力者であった。個人の力量で支えられる政治体制下に有って、こうした無能な人間が登場したことが、新たな政治体制へ移行する引き金となったと言える。

§3 乱の帰結

 保元の乱は「武者の世」(愚管抄)を到来させ、応仁の乱は下克上の戦国時代を招来させた。どちらも旧来の身分制度の崩壊を意味するが、結果から見れば旧秩序の限界を清算するために乱が必要とされたと見ることも出来る。そしてそれに対する一つの解決策を提示したのが清盛であり信長であった。しかし彼らの回答は頼朝や家康による別解に取って代わられる。

 これは逆の展開はありえなかったのだろうか。重商主義の方がより革新的であるが故に、乱を勝ち抜くのに有利である。だか安定期に入ると重農主義の保守性へ振れる。というのが分かりやすい答え。だが地理的条件として隣りに中国と言う巨大な自給自足社会があったことが大きいのでは無いか。地大物博の中国に大しては売れるものが無かった。要するに長期安定的な貿易相手がいなかったために日本の重商主義への移行を遅らせたのでは無いか。

 秀吉は大陸出兵と言う荒療治で華夷秩序の破壊を目論んだ。家康も貿易の利は残そうと画策したが、これを維持するだけの時間が無かった。日本が金銀の産出国であったことも重商主義への移行を妨げたかもしれない。言い換えると金銀以外に売れるものが無かった。日本が貿易立国を果たすのは明治維新までお預けになるのだが、その下準備をしたのが江戸時代の鎖国体制であったというのはなんとも皮肉な話だ。

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