比較歴史学 第三講 幕府創建と奥州討伐

 

§1 間接アプローチ

 今回はかなり無理矢理です。

 比較対照は家康の上杉討伐と頼朝の奥州合戦です。これは目的がほぼ共通していますが、配役の違いからその後の展開は全く異なります。

 家康の主目標は秀吉亡き後の豊臣家ですが、これを表立って討とうとすれば謀反になります。そこで利用されたのが三成。対して頼朝の主目標は京の朝廷、そしてこれを押さえるために利用されたのが義経と言う事になります。三成には前田利家という後ろ盾があったように、義経には藤原秀衡が居ました。謀略はこの後援者の死から始まります。

 利家が死んだ直後、三成は彼を恨む武断派の諸将に襲われ、家康の屋敷へ逃げ込みます。ここで三成を殺しても手にはいるのは彼の所領佐和山十九万国のみ。よって家康は彼の命を救い、次の機会を待ちます。一方の義経は兄頼朝の追討を逃れるために秀衡を頼ります。義経が無事に奥州へ逃げ込んだのは一見失敗に思えますが、頼朝は将来の奥州討伐を見越してわざと見逃したとも考えられます。

§2 各個撃破

 三成が中央から退けられた後、大老も国元へ帰ってしまい、中央政局は家康の意のままとなります。が、このままでは彼の立場は豊臣政権の宰相格でしか有りません。

 上杉家と共に豊臣政権を支えるはずだった前田利長は家康の暗殺を計画したと言う冤罪を着せられてり屈服。利家を秀衡とすれば、嫡子利長は義経を討った泰衡に相当するでしょうか。あくまでも義経を立てようとした忠衡は、関ヶ原で西軍に味方して動かなかった利長の実弟利政、でも良いのですが、ここでは関ヶ原のきっかけを作った上杉家を対応させます。

 三成と上杉家(の家宰直江兼続)は家康を東西から挟撃すると言う密約を持っていたと言う説がありますが、結果から見ると両者の共闘は不発でした。そもそも密謀というのはばれていないからこそ成功するのであって、家康の方も京を留守にすれば三成が動くと読んでいたようですから、これでは策は決まりません。京と会津では距離が有りすぎて連携が難しかったという問題もありますが。

§3 疑惑

 頼朝と義経は実は仲違いをしていなかったと言う異説があります。つまり義経は奥州藤原氏の動向を探るために送り込まれたのであって、平氏討伐に協力しなかった事から頼朝の討伐目標とされたと言うのです。この説だと、義経が奥州へ逃れたのも頼朝の計画通り。藤原氏が義経を担いで兵を挙げればこれを討つ大義名分が立つと言う訳です。義経は計画の完遂を信じて衣川に散ったか、あるいは密かに逃れたとしても結果は同じです。

 家康と三成も、後世に言われるほど険悪だったのか。三成の嫡子は隼人正は家康から一字を取って重家と名乗ったと言う説をどこかで読んだ覚えがあります。この重家を初め、三成の子供はほとんどが天寿を全うしており、三成の子孫は徳川家と婚姻関係を結んでいます。中でも家光の最初の側室お振りの方は三成の曾孫に当たります。そしてこの家光の代に豊臣恩顧の大名がいくつも取りつぶされたのはある意味で三成の呪いとも言えるでしょう。

§4 最終戦争

 頼朝(と言うよりは東国武士)の真の敵である京都朝廷は頼朝の死後、承久の乱にて鎌倉幕府に屈します。一方、家康は主家である豊臣家を二度の大坂の陣を経てうち倒します。こうして幕府権力は確立される事となりました。

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