比較歴史学 第二講 壬申の乱と西南の役

§1 外圧と政変

 我が国は外交問題がきっかけで幾度かの政変を経験している。と言うやりとりを以前にしたことがある。そこから発展して、外交問題がきっかけで日本の政権が倒壊した例として

1 白村江の戦い→近江朝の成立。

2 元寇→鎌倉幕府の滅亡。

3 朝鮮出兵→豊臣政権の崩壊。

4 黒船来寇→江戸幕府の滅亡。

と言う四件を挙げた。多分、五番目として太平洋戦争から戦後日本への移行を入れるべきなのだろうが、これは出発点をどこに置くかが難しい。

 で、今回取り上げるのは一番と四番。その政変の帰結について考える。

§2 政治改革

 この先は現在進行中の議論なのだが、白村江の敗戦により天智による中央集権国家の建設が行われた。おそらくこれが「日本書紀」に「大化改新」として記されている政治改革の実体ではないかと思う。このあたりは諸説あるのだが、いわゆる大化改新が乙巳の変による蘇我総本家の滅亡直後から始まったモノでは無いと考えている。

 大化改新は天皇中心の中央集権国家を作ろうというモノだが、これが単に蘇我総本家を滅ぼしただけで実現するようなモノではない。これをまともにやろうとすれば豪族達の既得権益を破壊する事になるが、それだけの強力な力が時の天皇家に備わっていたとはとうてい思えない。実際にその詔に書かれた諸施策が実体を持つのは天智の即位後である。

 天智はこの大改革(私はこれが「日本建国」だったと考えているが)を実現させるに当たって外圧を利用した。近江朝成立のきっかけは白村江での敗戦による危機感であった。

 そもそも百済滅亡に際して時の大和朝廷が何故軍事介入を選択したのか。時の斉明天皇の政治目標は息子天智への皇位継承だったが、その為には彼女の政治基盤である百済派の協力が不可欠であった。そんな状況下での百済本国の滅亡は大和朝廷内の政治的均衡を大きく揺り動かすモノだっただろう。半島での新羅の力が強まれば、列島内での新羅派の発言力も必然的に増し、天智への皇位継承は難しくなると言う判断だったのではないか。しかし、斉明女帝は半島での戦いの帰結を見ずして亡くなった。皇太子であった天智がすぐに皇位に付けなかったのはやはり政治基盤が揺らいでいたからだと考えるべきだろう。

 白村江での敗戦により百済再興の夢は潰えた。それどころか列島の独立すら危うい状態である。幸いにも唐と新羅はおそらく半島経営の問題で対立し、唐羅連合軍が海を渡って押し寄せて来るという状況は避けられたが、天智はこの国難を最大限に利用して自身の政治基盤を確立することになる。これに新羅派は抵抗しなかったのか、新羅派と言っても新羅に出自を持つと言うだけで、利害関係が完全に一致していた訳では無いだろう。また新羅派としての発言力が強まるのは良くても、新羅本国の政治介入は好まないと言う向きも有ったに違いない。

 さてそれから千二百年余り後、日本は再度の国難に際し天皇中心の国家形成を目指した。明治維新である。明治維新が有る程度大化改新を意識して行われたのは確かである。

§3 反動勢力

 どちらの政治改革も外圧を利用したやや性急なモノであった。そして既得権益を奪われつつあった反動勢力の反乱が発生する。それが今回のテーマである壬申の乱と西南の役である。

 壬申の乱は近江朝が庚午年籍によって作り上げた国民軍と天武率いる美濃尾張の豪族軍の戦いである。一方の西南の役は壬申戸籍を基礎とした平民軍と西郷率いる薩摩氏族の激突であった。反動勢力はどちらも当時の最強兵団であったと思われるが、前者は勝利を収め、後者は敗北した。

 敗因は近江朝軍が初陣であったのに対して、明治政府軍が数度の士族反乱を経て経験を積んでいたこと。さらに指揮官の戦意の差も大きかっただろう。西郷はおそらく徳川幕府を倒すことで燃え尽きていてすでに自身の戦意はなかったと思われる。一方の天武は挙兵の事情はともあれ、敗れれば日本史上最悪の反逆者として名前を残す(あるいは全く歴史から抹消される)事になっただろう。すでに歴史に残る実績を上げていた西郷に対して天武は壬申の乱以前の実績は全く無い。何しろ天武を顕彰する目的で書かれた「日本書紀」に全く記述がないのだから。

 もう一つの用件として近江朝は天智がすでに亡く若い弘文=大友皇子が指揮を執っていたのに対し、明治政府は大久保が健在だった。天智には暗殺疑惑があるが、西郷も本気で勝つ積もりなら大久保の暗殺ぐらいは仕掛けるべきだった。

§4 乱の帰結

 壬申の乱に勝利した天武は結果として天皇の政治権力を最大限に高めた。天武朝により作られた万世一系の原則は、明治政府によって国家神道へと昇華する。

 壬申の乱で天武が負けていたら、西南の役で西郷が勝っていたら、日本は今とは異なる国体を持っていただろう。

 コラムトップに戻る