比較歴史学 第一講 江戸無血開城と小田原評定

§1 戦いのきっかけ

 徳川軍と討幕派=薩長軍の最初の激突は関東よりも遙かに西、京都の入り口である鳥羽伏見で起こったが、これは薩摩の挑発行為(江戸に於ける不穏工作、御用盗と称される)に幕府側の一部が乗ってしまった結果である。対して豊臣と北条の手切れは、北条家が係争地となっていた真田家の名胡桃城を攻め落とした事による。これも真田家を使った一種の挑発行動であった。どちらのケースも、朝廷の権威による平和協定が破られたことが攻撃側に大義名分を与えている。そして朝廷を抱え込んでいたのはどちらも西方であったのは地政学上の必然であった。

 但し二つのケースには東西の戦力差と言う決定的な違いがある。薩長討幕派は新政府の中でも完全に主導権を得ていた訳ではなく、また単純に軍事力では徳川家の方が勝っていた。薩長は新政府内での主導権を得る方策として徳川家の武力討伐を目指したのである。対して豊臣政権は関東以西の大名をほぼ完全に臣服させ、天下統一の最終段階に至っていた。

 鳥羽伏見の戦いは薩長連合による一か八かの掛けであって、戦術的には徳川方にも十分な勝機があった。もしこの戦いの結果が逆転していたら、薩摩と長州が史実に於ける会津や二本松の様に蹂躙されていた可能性もある。

 一方の秀吉は、自己の政権の正当性を得るために天皇の名を利用した総無事令(これが戊辰の役における王政復古の大号令に相当するだろう)を打ち出したが、これによって逆に簡単に戦を仕掛けられないと言うジレンマに陥っていた。挑発に乗った北条の軍事行動により秀吉は晴れて全国の大名に動員を掛けることが出来た。

§2 戦いの結末

 初期の戦力差の違いに起因するのだが、戊辰の役に於ける徳川家はまだ十分に余力を残した状態で降伏した。その為、徳川宗家は70万石という、それ以前とは比べるべくもないが、諸侯としては十分に大きな存在として残ったし、旧幕臣達もさほど悪い扱いは受けていない。江戸の無血開城は勝海舟の手腕に拠るモノであるが、それも徳川の戦力がまだ残っていたかれこそ出来たことと言える。

 一方北条家は、営々と築き上げてきた関東の領国をすべて失っている。家名だけは辛うじて残され、一万石の大名家として幕末まで生き残っている。この時の反省か、幕末の北条家はいち早く新政府に恭順している。

 この二つの戦いに置いてほぼ同じような立場にいた大名家がある。奥州最大の領国を持つ伊達家である。どちらの場合でも、伊達家は状況を動かせる位置にいながら結局何もしていない。介入の機を逸して領地を削減されただけである。島津家や毛利家が関ヶ原の屈辱を見事に晴らしたのとはあまりに対照的である。

 ついでに言えば、関ヶ原以降に大きく領土を増やした家はほとんどが幕末では下手を踏んでいる。例外は土佐山内家であるが、これは関ヶ原で改易された長宗我部家の遺臣達である郷士達が独走した結果である。

§3 残務整理としての奥州戦線

 戊辰の役では佐幕派の東北諸藩は手ひどくやられたが、それでも改易になった大名家はたった一つの例外(請西の林忠崇は藩主の立場を捨てて戊辰の役を戦った)を除いて無い。後の士族の反乱が西国の維新に功績のあった、それで居て報われなかった連中によって引き起こされている事からも分る。

 戦国は小田原陣で、幕末は上野戦争でほぼ終結している。後の奥州戦線は明らかに無駄な戦い、良く言っても残務整理にすぎない。この原因は距離に起因する情報格差にある。政治文化の中心から遠く離れた奥州の地は、独立割拠を企図するのなら距離が有利に働くが、天下を狙うと成ればあまりに不利である。

 ”遅れてきた”伊達政宗の有利は統一の遅れていた奥州に生まれたことであり、不利はその奥州を纏め上げたときには既に天下の大勢が決まっていたことである。伊達政宗の天下取りの可能性については稿を改めて検証してみたい。

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