スポーツ国際戦略私論 7 相撲 神事と興業の二面性

 

§0 朝青龍問題

 これが相撲でなかったら朝青龍はあそこまで叩かれなかっただろう。朝青龍の”不運”は相撲を選んでしまった事にあるのだが、相撲が(恐らく世界的に見ても)最も稼げる格闘技であることもまた事実である。それが彼の目的と合致したのだろう。相撲の文化的側面を叩き込めなかった高砂親方の責任は大きいが、しかしこれは単に親方一人の責任ではない。朝青龍の処分が「解雇」でなく自主的な「引退」に収まったのは、親方への飛び火を最小限に治める為、ひいては相撲協会への追求を交わす為であったとしか思えない。

 どんな世界でも”悪役”というモノは存在する。日本語の”悪”という言葉には”強い”と言う意味も含まれている。朝青龍はそうした意味でもまさしく悪役であった。彼の問題は外国人力士として初めて頂点に立ってしまった事にある。彼は初めての外国人横綱ではなかったが、彼以前には対置する日本人横綱が善玉として存在していた。現在、朝青龍と対置される形で白鵬一種善玉の位置づけをされているが、果たして悪役=朝青龍が去った後もその立場に留まれるだろうか。

§1 相撲の国際化

 外国人力士問題つまり外国人を相撲取りとして受け入れるか否かを今更問うつもりはない。なにしろ最初の外国人力士である高見山の初土俵は昭和三十九年である。それから既に四十年以上、何ら有効な手を打ってこなかった相撲界の無為無策にはあきれるしかない。

 相撲が国技というのは相撲界の自称でしかない。(両国の相撲専門競技場を「国技館」と名付けた事に由来する)が、国技というなら外国人力士の採用については細心の注意を払うべきであった。が、興業であるならば外国人を入れるのに何ら問題はない。相撲界の迷走はその辺りの明確な線引きが成されない事にある。

 優勝力士の表彰式を見ていると、○○国親善杯というのがいくつも登場する。また一方で国際相撲連盟によるアマチュア相撲の国際大会というのも存在する。既に大相撲は国際的に認知されており、もはや鎖国は許されないのだろう。

 プロの相撲協会とアマの相撲連盟が別々に存在する辺りが野球界の状況とやや似ているかも知れないが、将来的に相撲の国際大会に大相撲の(つまりプロの)力士が出場する可能性は低いだろう。組んでから始めるアマチュアと立ち会いで勝負の半ばが決まるプロの大相撲はやはり別物と考えられるからだ。さらにオリンピック種目を目指すと成れば、柔道・レスリングと競合する。(個人的にはこれらを統合した総合格闘技の大会が見たい気もするが)

§2 神事と興業

 大相撲が神事であるならばすべての力士(行事も含めて)は神職と同等の扱いにすればよい。それで有れば、女性が土俵に上がれないと言う禁忌に対する明確な説明にも成る。がこれはいささか急進的・教条的に過ぎる。せめて横綱の地位についての扱いを見直す必要があるだろう。少なくとも”品格”等という曖昧な表現は辞めるべきだ。そもそも横綱の綱は注連縄と同じ意味合いなのだから。

 一方で大相撲は興業である。そちらの側面を完全にそぎ落とす事は逆に大相撲の”伝統”を破壊する事に繋がる。但し興業であるが故にヤクザとの関係は断ち切りがたいのであるが。興業としての相撲は寺社による勧進の変形であり、それを思えば相撲協会はその利益をむやみに抱え込まず社会還元すべきなのである。それでなくとも宗教団体というのは金が集まりやすく、それ故に腐敗も起こりやすいのだから。

 ”二面性”と表題には書いたが、これは実際には切り離せないコインの両面なのである。

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