スポーツ国際戦略私論 6 ベルリンと甲子園

 

§1 特待生問題と助っ人外国人

 確か二年ほど前、公立の佐賀北が甲子園で優勝したとき、特待生問題がクローズアップされ、高野連も長く野放し状態だったこの問題に遅ればせながら手を付けた。特待生が県の枠を越えて移動する事は、(資金を持つ)特定の学校が強くなると同時に、流出県のレベルを下げてしまう事にも繋がる。特待生の制限は各県の野球レベルに多少なりと均等化をもたらしたのではないか。それが今回(2009年)の日本文理高校の大躍進に繋がったのかも知れない。

 新潟県代表として春夏通じて初の決勝進出。惜しくも優勝は逃したが、最終回の猛追で一点差に追いつく大健闘の準優勝だった。何より嬉しいのは同校のバッテリーが小学校以来の相棒で、県内出身者であると言う事だ。文理全体でも、県内者が多数で一部県外”留学生”が含まれると言う構成らしい。これも全く県外者を入れないとなると、純粋に県内者のレベルが現れるが、それでは格差は解消されない。一定数の助っ人を入れて適度な刺激を与える事が全体のレベルアップに繋がる。

 これは他のプロスポーツにも通じる。野球でもサッカーでも、一定の”外国人”をチームに加える事で、戦力アップ、戦術の多様化が図られている。リーグのレベル向上という観点からすれば、枠を設けない方が良いのだろうが、それでは国内選手が育たない。(この辺は貿易問題にも通じる)

 アメリカ大リーグでは、一見外国人制限が全くないように見えるが、実はリーグ全体で制限が掛かっているらしい。つまり配下のマイナーリーグを含めての外国人比率が決まっている。大リーグの選手権がワールドシリーズと名乗れるのも当然だろう。まあ、逆に野球というスポーツの国際化、普及を妨げていると言う側面もあるのだが。

 対して我が国の相撲だが、外国人力士は各部屋一人と言う制限を設けている。にも関わらず両横綱を含め幕内上位陣には外国人力士がずらりと並ぶ。

 しかしこれもある意味で致し方ない事。外国人力士は数を揃えられないだけに選抜の時点で入念な審査を経るのだろう。裏を返せば、上位昇進を果たせないようなポテンシャルの低い”外国人”は入門の時点で弾かれている筈だ。

 要するに外国人力士の台頭は日本人力士のレベル低下を意味する。ぶっちゃけて言えば、力士に成りたがる日本人が減っている事が最大の要因だろう。大相撲は興業であると同時に神事でもあるので、協会には体質改善を求めたい。

§2 世界陸上

 陸上競技は、個々の身体能力が残酷なまでに現れてしまう。黒人は人類発祥の地で生き残ってきた、最も強かった人々の子孫であり、その身体能力の高さは遺伝レベルで証明できる。そしてそこから追われた色の薄い人々であるが、これは寒い地方に適応した種ほど体が大きいと言う生物学的な法則に従う。要するに単純な身体能力だけを比較すると、黒人>白人>黄色人となるのは必然である。

 とは言え、アスリートは各競技に特化した体作りをしてくる。ウサイン・ボルトが如何に短距離を極めようとも、長い距離は走れないはずだ。また投擲競技者は走るには向かない体型をしている。持久走となれば、単純な筋力だけでは計れない、心肺能力の勝負となる。そしてこの極限としてマラソンでは日本人もまだまだ戦えることが分かった。

 今回のベルリンでは日本人の村上幸史選手が槍投げで初のメダル獲得を果たした。村上選手は日本選手権十連覇中と国内では無敵の選手らしいのだが、国際的な実績は全くなかったらしい。同じ投擲の室伏選手と同様、個人的に突出していても後が続かない。

 しかし、フォームがあまりに特殊なハンマー投げと違い、槍投げは野球の投球とも近い。実際に村上選手はmax152km/hを記録した事があるそうで、野球から槍投げに転向して大成する選手がこの後現れるかも知れない。(ちなみにハンマーの室伏選手の始球式も見た事があるが、筋肉の付き方やフォームの違いから、かなり不格好な投げ方だったと記憶している)

 投擲競技はかなり特殊で、六回の試技の内一回でも大記録を出せば良い。筋力問題とは別に、安定性を好む日本人には不向きな競技だろう。跳躍競技では幅跳びが同じ性格を持つがそれ以外の高跳びはこれとは全く違う、目標となるバーを越えるという別次元の競技となる。こちらの方が、堅実な日本人向きの競技なのだが、こちらは筋力と共に繰り返しの持久力も要求されより高い身体能力が求められる。これが棒高跳びとなれば技術力も加わって更に難度は上がる。選手育成も容易ではないのだろう。

§3 附・五輪競技

 ブログの方に書いた稿ですが、ついでにお読み下さい。

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