スポーツ国際戦略私論 あるいはアテネオリンピック観戦雑感

 

§1 スポーツ人口のピラミッド

 スポーツ人口は大雑把に三段階に分けられると思う。頂上にあるのがプロスポーツ選手、その下がアマチュアスポーツ選手層、そして最下層に位置づけされるのがスポーツ観戦者等である。これはスポーツを支えると言う観点から見た位置付けであり上にいるから偉いと言うことではない。

 さて各層について上から順に見ていこう。ここで言うプロというのは世界を目指すトップアスリートを指し、本稿で検証するスポーツ国際戦略における最前線を形成する。そしてこの部門での成果が競技人口の獲得をもたらし、引いてはピラミッド全体を上に押し上げる事になる。日本での国内リーグに留まる選手(例えば銅メダルに終ったプロ野球選手)は、たとえスポーツでどれだけ稼ごうともこの中では下位に区分される。野球の分野での頂点は現在の所は(オリンピックの金メダルではなく)MLBと言うことに成るであろう。

 次にアマチュア層であるが、これは最も解りやすいだろう。要するに趣味としてスポーツを行う人々である。この層はトップを目指して精進する若年層と引退もしくはドロップアウトした元プロなどが混在する。この層は未来のプロ候補を抱えると同時にスポーツ用具メーカーの顧客という形でスポーツ界の維持発展に貢献する。対してプロは広告塔としてメーカーから生計の一部を支えられる存在である。要するにアマチュアの落とす金は間接的にプロを支えるのである。アマチュアからプロへの人材流入システムが巧く機能しないとスポーツのレベルは長期的には維持出来ない。

 そして最下層は三種類の人々で構成される。一つはこの層の総称として上で挙げた観戦者=サポーターである。彼らは、目に見える形としては観戦料として、また応援という目に見えない形でトップアスリートを支える。そしてこれ以外には選手を直接支えるコーチや後援組織などの職員、そして彼らの活躍を記事にするマスコミもここに含まれる。すそ野が広がらなければ山は高くならない。

 こうした人口構成から考えると、若い世代が少なくなる少子高齢化社会はスポーツ戦略において大きなマイナスであると言える。これはスポーツ界のみでなく社会全体で考えなければ成らない問題であるが。

§2 スポーツの経済的戦略

 プロスポーツを高いレベルで維持するためには当たり前であるがコストがかかる。こうした資金は通常はピラミッドの下から上へと流れる事になる。儲かったプロが後進のためにその一部を基金として提供することは有るだろう。

 当たり前であるが、スポーツ選手は国民生産に何ら寄与しない。よってオリンピックでのメダルラッシュが直接的に経済を押し上げると言うことはあり得ない。しかし、オリンピックでの成功が日本の強い経済力の象徴の一つであると言うことは出来る。金を掛けるほど強くなる協議、金を掛けないと勝てない競技というのは確かにある。例えばサッカーというのは比較的金が掛からないスポーツであるが、サッカー選手の目標となるプロリーグの存在がなければサッカー人口は増えないであろう。

 外国人選手を無制限に抱えるリーグというのは、自国の金で他国の選手を育る事になり国内選手の育成という観点では明らかにマイナスでる。スポーツと戦争は別物であるとよく言うが、スポーツが戦争と置き換えられ、実際の流血が減るならばそれに越したことは無いと思う。古代オリンピックというのも、元はギリシア都市国家同士の戦争を一定期間止める役割を持っていたのだから。近代オリンピックにおいてもオリンピック休戦が現実化する事を望んで止まない。

§3 スポーツの科学

 国や民族の違いから来る体格差というのは確かに存在する。そしてそれらが絶対的な壁となって立ちふさがる競技も有る。しかし少ない人材でも効率よく鍛えれば全く勝てないと言うモノでもないだろう。また科学的な選手育成というのも重要な要素である。

 そこに現れるのがドーピングという問題である。科学的トレーニングとドーピングの間にはどこかで一線を引く必要があるだろう。スポーツ選手というのは特殊な用途のために肉体を酷使する訳であるから、どこかに無理が生じる。過ぎ足るは及ばざるが如しというように、勝利のために度を超えた肉体の酷使が寿命を縮める結果となっても不思議はない。勝利の栄光と己の生命とは安易に交換しては成らないと思う。

 では命に危険がなければやっても良いかと言う反論も出てくるだろう。だがそれだったら何も人間がやる必要はない。ロボットを開発してその技術を競うという事も実際に行われている。近未来SFに見られるような、改造人間達の競技会などはっきり言って興醒めである。

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