源平合戦の経済学的検証

 源平合戦を重商主義=平家重農主義=源家の競争と言う側面から経済学的な検証を試みる。

1 平家政権の限界

 清盛の重商主義政策は当時としては先進的であった。しかし、彼の経済理念は、時代の制約もあるのだけど不完全だったと思う。貿易を恒常的に行うには貨幣経済の発達が不可欠なのであるが、日本は自前の貨幣鋳造能力が無かった。一応皇朝十二銭と呼ばれる貨幣はあったが、経済観念が欠如していた平安貴族にはその運用が出来なかった。清盛は宋銭を輸入してこれを流通させようと図ったが、これはあまりに愚策。自前の貨幣発行権を持たない独立国家などありえず、これは自ら宋の華夷秩序の中に入ることを意味する。

 但し、この時代の日本が貿易立国を目指すとなればその最大の相手は中華王朝にならざるを得ず、その辺が悩ましいところ。その辺が新たな貿易相手として南蛮人が浮上してきた信長の時代との違い。

 更に、平家政権は独自の統治機構を構築せず、それまでの律令体制の中での出世を目指した。彼の極官は太政大臣で、これは律令体制における最高位ではあるが、後の武家政権が看板とした征夷大将軍や関白といった令外官とは本質的に異なる。

 関白は藤原氏が権力を握ったときに作り出した自家製の官職といってよい。そして武家政権の代名詞と言っても良い征夷大将軍は、頼朝が創造したものではなく、彼が得た権力に既成の官職を被せて大義名分を生み出したものである。

2 平家幕府

 平家政権を福原幕府と呼称する意見がある。そもそも幕府と言うのは日本においては近衛大将の本陣を意味した。頼朝も初め近衛右大将としてその家政機関を公卿並の政所と称した。よって形式としては右近衛大将任官時点で鎌倉幕府は成立していたと言える。実質的にはそれより前の文治の勅許による守護地頭の設置許可をもって鎌倉幕府の成立とするのが有力らしい。

 清盛は近衛大将になっていないが、重盛や宗盛が近衛大将になっているので幕府の名称に値する。但し息子達は京都にいたのだから平家の屋敷にちなんで六波羅幕府と呼ぶのが適切だろうか。

3 米本位制

 日本の重農主義政策を支えるのが米本位制。貨幣経済の発展とともに土地の価値を通貨で計算する貫高制が広まりましたが、結局収穫高で示す石高制に統一されることとなりました。

 古代には小麦で給料を払う麦本位制も存在しましたが、これがスタンダードにならなかったのは麦がどこでも作れて、収穫量を把握するのが困難であったこと。対して米は水を支配することで収穫量を把握しやすいと言う側面がありました。

 加えて、貫高制だと貨幣の流通量を維持しなければならないのだけど、当時としては難しかった。経済学が未発達でインフレやデフレと言う概念が無かったというのが要因でしょう。更に言えば、貫高制だと毎年の収穫量の上下で収入が増減して予算が組みにくいというデメリットも有ります。国民の大多数が農民かその上前で生活する武士階級となれば、農業を基準とした経済体制の方が有効なのは明らかです。

4 通商国家の問題点

 交易も初期には物々交換であったでしょうが、規模が大きくなるとやはり貨幣による売買が行われます。これには大きな盲点があって、買うばかりつまり貿易赤字が出ている状態では、国内の貴金属が流出し国内経済が冷え込みます。短期的には金銀を掘り出して穴埋めすることができますが、地下資源はいずれ枯渇します。長期的な対策は何かを売って貴金属を取り戻すこと。

 しかし日本が主な交易相手とした中国は一方的な売り手市場であり、これを相手にしている限り金銀の流出を止める手立てはありません。歴代中華王朝は朝貢貿易と称して朝貢国に銅銭を下賜していますが、これも中国の産物を売ることでいずれ国内に戻ってくるわけです。

 要するに国内産業の成熟なくして交易立国は成立しません。これが平家政権没落の究極的な理由でしょう。

5 清盛の死と平家滅亡

 平家の栄華と急速な滅亡は豊臣家のそれと比較されますが、豊臣家の天下が秀吉の死まで磐石だったのに対し、平家の天下は清盛存命から頼朝の挙兵と言う形で暗雲立ち込める状態でした。

 清盛が後数年存命だったとしても、この大勢は覆らなかったでしょう。その意味で、平家の滅亡は清盛の路線自体に問題があったことに成り、頼朝を殺していたか否かは関係ない。平家を追い出したのが頼朝の鎌倉軍でなく、同じ源氏でも木曾義仲軍であった訳で、頼朝がいなければ東国武士は義仲を中核としてまとまっていたことでしょう。

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