自由と平等の相克

1 自由主義の理論

 自由主義の本質について、参考文献として取り上げる「自由はどこまで可能か」 森村進 講談社現代新書をかなり強引に要約します。

 自由主義=リバタリアニズムとは、「自己所有権」テーゼ(S・O・T)より発生し帰着する。この自己所有の概念については改めて詳述しますが、各人は自分自身の所有者であり、各人のその権利は市場原理に則って管理統括される。

 重要なのは、有る秩序なり制度なりが個人の自由を守っているかであり、それが自生的であるかどうかではない。設計によらない秩序も、権力の行使と結びつく場合、自由でない秩序に成りやすい。よって国家権力の及ぶ範囲は出来うる限り小さくするべきである。ケインズ的な公共投資や財政赤字は否定される。公共投資とは、課税によって減少した個人消費や投資の代わりに、政府が儲からない事業に資金をつぎ込む事である。その結果富の総額は減少する。また、赤字財政の財源である国債の発行は政府の安易な巨大化を招くだけである。

 社会全体が豊かになるほど、「金で買えない物」を享受出来る。 

自己所有とその適用条項

 自己所有に関し、自分の体のみに及ぶ「狭義の自己所有権」論と、労働の産物への権利までを含む「広義の自己所有権」論とに区分される。これに対して自己所有権を一切認めない平等主義、「共同所有」論とに三分化される。最後の物は所謂共産主義なので論外としても、「自己所有権」をどこまで広げるかについては意見が分かれる。

 自己の身体への行動は自由であり、他人へ強制する事は認めない。プライバシーの本義は「一人で放って置かれる権利」であり、これを「自分に関する情報をコントロールする権利」まで拡大するのは権利のインフレである。例えば前科を公開するのは自由権に抵触しない。前科を元にその人間に差別的な行為を行う事が自由権の侵害になる。極端な話、公的な裁判・刑罰制度が無くなれば、前科という概念も自ずと変化するであろう。

 特定の人にしか利用出来ない有体物には自己所有権テーゼから財産権が認められる。が著作物や特許などの無体物には自然的な排他性が無く、財産権は発生しない。自己所有権と生存権に含まれない請求権に関しては自由の制限に繋がるので認められない。

 自己奴隷化と臓器売買に関しては、契約時の当事者と現在の当事者を別人と考えれば、自己奴隷化売買は将来の”別人である”当人の自由を侵害する。言い換えれば、自己奴隷化は当人を権利者で無くしてしまうから認められない。それに対し、臓器売買は当人が権利者として残るから、自分が臓器を売らない理由にはなっても、他人の行動を禁止する論拠には成らない。市場経済が進み、豊かになるほど「金で買えない物」は増えていくから、結果臓器を売ろうとする者は居なく成るであろう。

 天然資源の価値は労働が投入されて初めて現実化するのだから、その価値の権限は価値を生み出した者へ帰するのが正しい。自由市場で生じる財産権は@国家の庇護無しにも慣習上存在しうるし、現に存在した。A法はそれを尊重すべき道徳的な理由がある。故に自然権(自然の与えた権利ではなく、自然に生じる自然な権利)と考えられる。

 国境や国籍は重視せず、多様な国家の存在を望ましいと考える。人権は国家への所属によって与えられる物ではない。国防は市場経済に馴染まないので、国家がそれを担うのは当然と言える。但し、軍隊は市場では生き残れない軍事産業と政府の癒着を生みやすく、また、必要を超えて拡大する傾向がある事に注意が必要である。

 民間による紛争の解決機関「ADR」(オルターナティブ・ディストリビュート・レゾリューション)の存在は紛争の効率的な解決に有用である。ADR機関同士の競争によりその公正化が保たれるであろう。但し、ADR機関による和解を避けようとする一部の人々の為に公的な裁判所は最低限必要である。現行の制度は刑事罰が重視され、被害者の救済が軽視・無視されがちである。よって加害者による損害賠償へと重点を移すべきである。また売春や賭博など、被害者のない犯罪の多くは非犯罪化すべきかも知れない。但し、@社会に対する犯罪、(被害が多数の人々に薄く分散され、個々への賠償が割に合わなくなる)A個人を対象としながら社会的影響が無私でいない犯罪、B未遂犯罪(被害がなければ賠償責任は発生しないか)C賠償し難い、仕切れない不法行為、等には別途検討の余地がある。

 補足:刑罰廃止論と予防効果
 リバタリアン的刑罰原則
@ 罰する必要がある権利侵害に限る。(その判定には”政府”が当たる)
A 目的を不法行為の抑止に限定し、それを超えた行動の制約は認めない。受刑者の更正は刑罰の目的としない。
B 社会一般の利益保護より、直接の被害者の権利救済を優先する。

 個人的自由に対する国家の介入を不正と考えるが、人々の自発的な行動から生じる社会的な圧力や経済的圧力は容認する。公的権利の中で最も制限すべきなのが課税制度である。@ 政府による経済への規制・介入には基本的に反対する。国家が果たさなければ成らないとされる機能は市場が果たしうる。A 市場こそ個人の自由が典型的に実現されている秩序である。B 市場は勝ち負けが決定されるゼロサムゲームでなく、参加者双方に利益を与えるプラス・サム・ゲームであるから、人々の間で狭い自己利益を超えた連帯が可能になる。

自由主義的平等原理

 結果の平等(つまり高所得者から多くの税金を取る)は結果として、社会全体を落ち込ませるので現実的でない。また機会の平等は一見公正に見えるが、やはり現実性は乏しいと思われる。自由主義者が求めるべき平等とは、法の下の平等である。つまり金持ちがそれによって不当に利益を享受したり、逆に貧しい者がその為に不利益を被ったりしなければ良いとする。 市場経済は分業を発達させるが、分業は人間の生来的不平等を強めるので、結果的に人々の貧富の差を拡大する。だがこの様な経済的不平等は各人の自由な行動(=市場活動)の結果である限りは不正ではない。

 政治的不平等は問題であるが、これが経済的不平等を禁止する理由には成らない。利益配分型の政治はその制度がどんなに民主的であっても原理上不正である。政治の役割とは、@市場では十分に供給されない公共財が何で、どれだけ供給するか、A福祉給付の程度はどの程度必要か、を決定し行う事である。国家の中立性は「法の下の平等」の一側面である。国家はその実現のみを任務とし、結果や機会の平等を考慮する必要はない。

 法の下の平等を満たすのは、(累進制のない)一定率の所得税か消費税である。消費税は貯蓄(投資)には課税されないから、所得税にはない貯蓄を奨励する機能がある。地方政府にも課税の権限を認めるが、それは有る程度制限を受ける。

自由な社会

 親が子に対する教育の権限を持つ。多様な私立学校の併存が理想であり、公立学校の価値は疑問。塾の価値は評価される。

 死者は自然権の主体者たりえず、遺産は誰の物とは言えない。よって相続税は最も正当化しやすい税と言える。逆に生前の贈与は自由に認められるべきで、それに掛かる贈与税は相続税とは別物と考える。老親の扶養義務と相続は別儀である。子が遺産目当てに親の世話をしたり、老後の面倒を見て貰うために遺産を残すなどそもそもナンセンスである。

 既婚者を優遇する現行の制度はそもそも法の下の平等に反するので、婚姻制度を法的に規定する事は廃止すべきである。

 内容に関する個人的な見解については稿を改めて。なお抜粋項目に関しての文責は全て私にある事を明記しておきます。

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