「唐入り」異聞

 カトリックによる世界征服と言うコンセプトの元、秀吉の唐入りをスペイン艦隊が後押しした場合の展開を妄想する。

§1 九州征伐あるいは外征準備

 唐入りに至る前段階として秀吉の天下統一の過程を微妙に改変する。

 史実では実現しなかった日本(秀吉)とスペインの連合軍による唐入りであるが、その分岐点として秀吉が日本管区長コエリョに提案した外航船購入提案が受け入れられたところから話が進む。

 この時購入したのは二隻のガレオン船(船員込み)だが、これだけでは大軍を大陸に送り込むのは無理である。鉄砲を短期間で複製量産してしまった日本人のこと、入手したガレオン船を参考にたちまちの内に量産体制を確立したであろう。史実における国産ガレオン船は伊達政宗が建造し慶長遣欧使節に用いられた。この建設に要した日数が四十五日。天下人秀吉が全力を傾ければ、一隻に掛かる日数は短縮できないとしても、多数の人員を集めることでその十倍の建造が可能であろう。つまり百隻の艦隊を作るのに一年半と概算する。

 四国征伐には間に合わないとしても、翌年の九州征伐までには五十隻程度の艦隊が投入可能。豊後や豊前に上陸した秀長軍はあくまでも囮であり、本命は海路による秀吉本軍による鹿児島直撃である。但しこれはあくまでも後の外征のための予行演習であるが。

 秀吉の薩摩上陸により肥後の国人が島津から一斉に離反。豊後に居た島津当主義久が肥後口で道をふさがれ、三弟歳久がこれを逃すために身代わりで討死する。(逆に史実において日向方面で討死した歳久の婿養子忠隣は無事)

 島津家は当主義久が隠居し、弟義弘に薩摩一国が安堵される。義久には大隈が、義弘の長男久保には日向諸県郡が与えられ、いわゆる三州は分割知行とされる。四弟家久はその所領佐土原を没収されるがその代わりに秀吉の馬廻りに取り立てられて唐入りで一軍を率いる。(史実のような上洛前の急死はなし)

§2 関東総無事と江戸打ち入り

 天下統一の総仕上げとなる北条征伐にむかう経緯は史実通り。秀吉の本軍は海路で江戸湾へ突入し、江戸城を占拠する。北条軍を挑発するように城の大改修と地形の改造(谷を削って海を埋め立てる)を大規模に行う。(渡海後の現地築城の予行演習)

 関東の反北条大名の参陣により北条家は戦意を喪失して史実より早くに降伏。北条家には伊豆相模の二国を安堵する。遅れて宇都宮で秀吉と謁見した伊達政宗は全領土を一旦没収されるが、改易された大崎・葛西領を本領として与えられる。政宗に近い小大名を独立大名として安堵することで伊達家を弱体化。(伊達成実・片倉景綱も独立)

 仮築城された江戸城を添えて、旧北条領の残り(武蔵・下総・上野)に加えて佐竹家が移動した後の常陸を徳川家康に与える。秀吉の下に人質となっていた家康次男秀康も(史実どおり)結城家を継いで家康の元へ返還される。織田信雄は史実と異なり家康の旧領(駿河・遠江・三河)への移動を受諾。信雄の旧領は(史実どおり)豊臣秀次に与えられ、加藤清正が寄騎大名として新たに加わり名古屋城を築く。

§3 三道併進

 スペイン艦隊と連携した唐入りは(史実どおりの)朝鮮口の他に、順天府(北京)と応天府(南京)を狙う三軍編成で行う。これに先立つ海賊統制令は史実のような「停止令」でなく、倭寇を戦力として積極的に取りこむ政策であり、彼らの既得権(警固料)を認める替わりにその一部を戦費として活用した。南京攻略は彼ら海賊衆の要望でもあった。その意味で唐入りが最大最後の倭寇という評価は正しい。

 朝鮮口の総大将は前田利家(副将は娘婿の宇喜多秀家)が務め、主に九州のキリシタン大名で編成される。北京攻略は秀吉本人(副将は甥の豊臣秀勝)が子飼いの諸将を引き連れて当たる。残る南京派遣軍は倭寇と浪人の混成軍でこれを束ねられるのは徳川家康(副将は次男結城秀康)以外にはあるまい。

 奇襲効果とイスパニアから提供された大砲の威力によって北京は早いうちに落ちるだろう。市民を懐柔すす為に国庫の財宝はばら蒔かれる。更に明の放漫財政の根源である神宗万暦帝を処刑して、長子(昌泰帝)を即位させる。これだけで占領地の統治は良好に機能するだろう。

 残りの皇子達は王に封じて城外へ追い出す。彼らが任地を治められるかどうかはその力量次第である。地方軍閥が諸王を奉じて反乱を起こす可能性もあるが、日本軍を狙うよりも互いに主導権争いをして共倒れになる公算が高い。なにしろ中国兵は規律が悪く、行く先々で略奪を起こして民の反感を買うに決まっているから。

 南京も日を置かずに陥落しただろう。南京を落とした家康は、その兵の掌握のために南京の財宝をばら蒔くことになる。兵達が手にした金は酒と女に消え、結果として南京の市民達を潤すこととなる。

 一番困難が予想されるのが朝鮮口であるが、北京攻略後に山海関を押さえることが出来れば明軍の援兵無しに朝鮮王国が抵抗することは不可能だろう。後は遼東総兵を務める李成梁を懐柔できれば女真のヌルハチとの同盟も可能である。

 史実では秀吉の唐入りと前後して寧夏(ボハイの乱)と播州(楊応龍の乱)で反乱が発生するが、南北直隷の陥落はこの後の展開を大きく変える。まずは遼東の李成梁一族の帰順。秀吉は山海関以北を李一族に安堵してこれを優遇する。(史実における明の援兵の主力は李一族であり、これにより朝鮮国の抵抗も止む)

 李一族と並ぶ麻一族(朝鮮で日本軍と戦った麻貴がその代表)

 北京・南京の平定後は、これを結ぶ京抗大運河沿いの都市を攻略する。これで唐入りの第一段階が終了する。大名配置に付いては別稿にて。

§4 第二次遠征

 第一次遠征の征服地の検地と大名再編を終えた後、第二次遠征(慶長渡海)が実行される。そのきっかけは順天府の総督であった蒲生氏郷の死去であった。氏郷亡き後、その後継ぎである秀行は幼少であり、要地を治める力量なしと判断した秀吉は、その後任として小早川秀包を抜擢する。これは養父隆景の後見を期待してのことである。

 日本軍撤収後に、軍費徴用のためと称して税が重くなったため農民反乱が起こった朝鮮王国。これを鎮定するために、文禄には出番の無かった毛利輝元が渡海する。前回は兵員輸送のみに用いられ武装の無かったガレオン船であるが、この五年の間に艦載砲の鋳造が進み朝鮮水軍との海上決戦が行われる。

 朝鮮八道の内南の三道(慶尚道・全羅道・忠清道)を割譲。全羅道を親王封地とし残る二道が毛利家に与えられる。替わりに安芸と石見を没収。出雲の吉川元長(史実と異なり九州征伐には加わらず存命)はそのまま独立大名化。

 朝鮮王宣祖が廃位され、次男の秀祖(=光海君)が即位する。国号を「和寧」に変更。これは李王朝建国期に候補として上がった名で(李成桂の出身地名でもある)あるが、「=日本によって安を与えられた」という意味合いが込められる。

§5 豊臣政権のその後

 鶴丸亡き後の秀吉に新たな子は生まれず、関白秀次の粛清は無し(秀次との対立は秀頼の出生のほかに唐入りの失敗が秀吉の権威低下を生み、秀次との軋轢を生じたとする説もある)。故に豊臣政権は秀吉の死後も問題なく継承が行われ、家康の付け入る隙は生じない。秀次の弟秀勝は唐入りで陣没せず、大陸で封地を得る。三弟秀保は史実では叔父である大和大納言秀長の養子となるが、その前に死去。秀長の跡は元々の養子仙丸(丹羽長秀の三男)が継いで秀高(史実では秀長の家臣藤堂高虎の養子となって高吉)と名乗る。

 高吉の異母兄である丹羽長重も史実よりは厚遇され、小田原で陣没した秀政の世継ぎ秀治と領土を交換する(丹羽家が若狭十五万石、堀家が越前北ノ庄十八万石)。秀政の与力であった溝口秀勝と村上頼勝(両者は元々父長秀の家臣であった)も長重に再附与される。

 関白秀次時代になると蔵入り地が整理され、三成は九州へ飛ばされる。これは太閤が生前に三成に「百万石をやろう」と言ったされる逸話を実現したもの。信憑性が高いのは「筑前筑後で三十三万石(朝鮮でヘマをして左遷が命じられた小早川秀秋領)をやる」と言われたけど断ったと言う話らしいが。秀秋の左遷話は秀吉の死後に家康が有耶無耶にして、この恩義が関ヶ原での裏切りに繋がったという流れになる。

 徳川家の弱体化のために家臣団を引き抜き転封する。いわゆる徳川四天王の息子達に秀次の偏諱を与えた上で、史実で所縁のある地へ移封する。

 イスパニアとイエズス会の本音は、日本の軍事力を利用して明国に基盤を築くこと。秀吉はあえてその目論見に乗ることで国内の切支丹勢力を大陸へ追い出してしまうことを考えていた。その一方で南蛮の技術はしっかり取り込んでいる。二度の渡海により国内の切支丹大名はあらかた大陸へ移され、東シナ海の制海権は外洋艦隊を整備した日本海軍が握っている。

 イスパニア王フェリペ2世は、この東アジアの勢力図の激変の意味に気付かぬうちに亡くなった。日本とフィリピンの海を巡る冷戦状態は今後百年は続く。

大名転封録

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