大名転封録
§1 九州国分
島津降伏後の九州国分。唐入りでのイスパニアとの共闘を考慮して切支丹大名を優遇。特に黒田孝高は唐入りのための拠点構築と輸送計画を任される。
黒田孝高→筑前一国(史実における江戸時代の黒田家領)
木下勝俊→孝高の旧領播磨山崎(史実どおり)
筑前秋月家→改易(史実では日向高鍋に移封)
毛利吉成(あるいは勝信)→豊前中津城(史実において黒田孝高が与えられた領地)
小早川隆景→同小倉城(城代として養子秀包、史実において毛利吉成が与えられた領地)
福島正則→隆景の旧領備後三原
脇坂安治→秀包の旧領伊予大津(史実より早い出世。船手衆としての軍功)
竜造寺家政→肥前佐嘉城安堵
江上家種(竜造寺家政次弟)→肥前勢福寺城(竜造寺家から切り離された独立大名)
後藤家信(竜造寺家政三弟)→肥前住吉城(竜造寺家から切り離された独立大名)
鍋島信生→筑後柳川城(竜造寺家から切り離された独立大名)
立花統虎→筑後久留米城(史実では柳川城)
大村純忠・喜前→肥前安堵、西郷領諫早を加増
波多親→肥前松浦安堵(史実では竜造寺家の与力扱い)
大友義統→豊後安堵
大友宗麟→日向北部
伊東祐兵→日向南部旧領佐土原城(史実で与えられた飫肥に加えて)
島津家久→佐土原城没収、馬廻りに取り立て(史実では領土は安堵されるが上洛前に急死)
佐々成政→肥後一国(史実どおり。国人一揆による改易はなし)
加藤清正→熊本城代(史実では成政改易後に肥後を分割)
小西行長→宇土城代(史実では成政改易後に肥後を分割)
亀井茲矩→琉球守(大返し以来の自称だが、島津の妨害で実現せず)
仙石秀久→讃岐一国、十河領を加増(史実では失態により改易)
十河存保→淡路一国へ移封、三好に改姓(史実では討死)
脇坂安治→播磨龍野城へ転封加増(史実では三代先の所領)
§2 関東・奥州
北条家を存続。替わりに伊達政宗に大して厳しい処遇。会津には蒲生氏郷(唐入りを考慮して)ではなく佐竹義宣を入れる。
北条氏直→相模を安堵、家康の与力
北条氏規→伊豆を安堵
里見義康→安房・上総安堵(史実では総無事令違反で安房のみの安堵)
徳川家康→武蔵・下総・常陸・上野の南部へ移封
織田信雄→三河・遠江・駿河(家康旧領の一部)
滝川雄利→伊勢神戸城(信雄から独立して直臣化、史実どおり)
水野忠重→三河西部岡崎城(信雄の与力)
織田長益→三河東部吉田城(信雄の与力)
加賀井重望(信雄の旧臣)→遠江浜松城(信雄の与力)
織田信包→伊勢津城(史実では北条親子の助命嘆願が勘気に触れて四年後に改易)
豊臣秀勝→信濃・甲斐(家康旧領の一部)
豊臣秀次→尾張・伊勢(信雄の旧領)を加増
加藤清正→尾張那古屋城(秀次の寄騎)
佐竹義宣→陸奥会津黒川城(芦名の旧領・伊達政宗より没収)
伊達政宗→陸奥寺池城(大崎葛西の旧領、史実で木村吉清が与えられた領土)
上杉景勝→出羽米沢(城代として直江兼続)を加増、出羽庄内は最上義光に譲渡
最上義光→出羽庄内を加増(長男と次男に分割相続)
伊達成実→陸奥二本松城安堵(伊達家より分離)
片倉景綱→陸奥大森城安堵(伊達家より分離)
石川昭光→陸奥須賀川城安堵(但し佐竹義宣の寄旗として)
小峰義親→陸奥小峰城安堵(佐竹義広を再度養子にして隠居、つまり実質的に佐竹義宣の寄旗)
黒川晴氏→陸奥鶴楯城安堵(伊達家より分離)
留守政景→陸奥利府城安堵(伊達家より分離)
国分盛重→陸奥近森城安堵(伊達家の支配から独立)
田村宗顕→陸奥三春城安堵(但し佐竹義宣の寄旗として)
和賀義忠→陸奥二子城安堵
稗貫広忠→陸奥鳥谷ヶ崎城(花巻城)安堵
§3 文禄渡海(第一次唐入り)
麦地帯の北直隷周辺にはキリシタン大名を配置、米地帯の南直隷一帯に親族大名を配する。
蒲生氏郷→順天府(北京)総督
黒田孝高→天津衛総兵、筑前領は息子長政が相続
後藤基次→薊州総兵(北京と山海関を結ぶ要衝)
黒田直之(孝高四弟)→保定府総兵
毛利吉成→山海関総兵
赤座郷安(蒲生家筆頭家老)→延慶府総兵
坂郷成(蒲生家家臣)→保安府総兵
佐久間安政(蒲生家家臣、佐々勝之実兄)→順徳府総兵
大友吉統→家中争乱により改易、二人の弟(親家・親盛)は別家扱い。
伊東祐兵→山東総督(済南府総兵)
(豊前・豊後・日向は豊家の蔵入地となり、石田三成が管理)
有馬晴信→渤海総監(莱州府総兵)
大村喜前→黄海総監(膠州府総兵)
千々石紀員(遣欧使節の一人)→有馬・大村の旧領(両家の非切支丹家臣を統括する)
小西行長→漕運総督(淮安府総兵)
寺沢広高→廬鳳巡撫(揚州府総兵)
小早川秀包→滄州総兵(漕運総督支配)
松浦久信→済寧府総兵(漕運総督支配)
佐々勝之(成政養子)→応天府(南京)総督、成政旧領肥後は細川忠興が入府
中村一氏(秀次近臣)→鎮江府総兵(兼錦衣衛都督)
島津家久→松江府総兵
結城秀康→蘇州府総兵、旧領は異母弟松平忠吉が継承
豊臣秀勝→杭州府総督(大運河の終点)
豊臣秀俊(史実では小早川隆景の養子秀秋)→甲斐・信濃(秀勝の旧領)
§4 慶長渡海(第二次唐入り)
毛利輝元→朝鮮二道(慶尚道・忠清道)、石見・安芸と交換
宇喜多忠家→石見西部・津和野城(史実では息子詮家が「坂崎直盛」の名で関ヶ原後に入府)
浅野長政→安芸一国
小早川秀包→北平府(順天府より改称)総督、蒲生氏郷死去の後任。
小早川隆景→延慶府総兵(養子秀包の後見役、隆景の死後は熊谷元直が就任)
加藤嘉明→伊予東半分(隆景の旧領の一部、松山城を新築)
宇都宮国綱→伊予西半分(隆景の旧領の一部、伊予の同族の居城大津城)
蒲生秀行→下野宇都宮城(宇都宮国綱の旧領、史実における蒲生騒動後の所領)
宗義智(小西行長女婿)→滄州総兵(小早川秀包の後任)
立花統虎→保安府総兵(前任の坂郷成は帰国して関白秀次直参)
京極高知→順徳府総兵(佐久間安政の後任)
竜造寺(鍋島より改姓)信生→開封府総兵(養子竜造寺高房が継承)
松浦久信→河南府総兵、前任地済寧府は一門篭手田安一が入府
細川興元(細川忠興次弟、史実では谷田部藩祖)→南陽府総兵
赤座郷安→徐州総兵(延慶府から転任、漕運総督支配)
佐久間安政→蘇州府総兵(順徳府より転任、秀康の後任。実弟佐々勝之の下へ配置転換)
豊臣(結城)秀康→安徽省総督・廬州府総兵
寺沢広高→安慶府総兵(廬鳳巡撫は廃止、揚州府総兵は行長重臣の内藤如安に交代)
本多成重(秀康付き家老)→鳳陽府総兵
石川康長(石川数正長男)→寧国府総兵
森忠政→信濃松本城(石川康長旧領)
真田昌幸→信濃海津城(森忠政旧領を加増)
真田信幸→上野沼田城(父昌幸から継承)
浙江省総督豊臣秀勝付き
堀尾吉晴(秀次近臣)→寧波府総兵(秀勝付きに転出)
織田秀信→金華府総兵(岐阜城=金華山)
亀井茲矩→台州府総兵(史実でも台州守を自称している)
大谷吉継→温州府総兵
§5 秀次襲封後
*北平府派遣武将
伊達政宗(家督は庶長子秀宗が継承)
真田昌幸・幸村親子(真田家の家督は長男信幸が継承)
前田利政(利家次男・七尾城主)
細川忠隆(細川忠興長男、家督を放棄)
長宗我部盛親(元親四男、長宗我部の家督は長兄信親が相続)
明石全登(宇喜多秀家重臣、秀家の名代)
清水氏満(最上義光三男、史実では義親)
*秀次直臣団(秀次事件で賜死・改易)
田中吉政→秀次筆頭家老。秀次の直轄領近江八幡山城を拝領。
滝川雄利→上野厩橋城、前橋と改称(岳父一益の旧領への復帰ならびに徳川家の弱体化)
木村重茲→山城淀城(渡海せず秀次政権下での加増)
坪内光景(通称は前野長康)→但馬出石城(渡海せず秀次政権下での加増)
坪内利定(光景実兄、元森長可家臣その後家康に取りたてられる)→美濃加納城(史実では大身旗本)
服部一忠→伊勢松阪城
渡瀬繁詮→丹波福知山城(史実では彼の家臣団を引き継いだ義弟有馬豊氏が関ヶ原後に得た所領)
有馬豊氏(渡瀬繁詮の義弟・家老)→丹波三田城(有馬氏の故地。豊氏の父則頼が得た関ヶ原の恩賞で父の死後に相続)
本多正氏(本多正信の甥)→相模玉縄城(史実では伯父本多正信の所領)
明石則実(黒田孝高の従弟)→但馬豊岡城
*大名の再編
四天王を含む徳川家臣団を引き抜き転封して直臣化(秀次の”次”の字を与える)。空き地に秀次譜代を配置。
池田輝政→播磨一国、姫路城を大改築(史実における関ヶ原の恩賞)
井伊直次(徳川四天王直政の次男直孝)→近江佐和山城、旧領高崎は滝川雄利へ(史実における直政への関ヶ原の恩賞)
平岩親吉(家康家臣)→尾張犬山城、旧領厩橋は滝川雄利へ(史実では尾張徳川家の付け家老として)
本多勝次(徳川四天王忠勝の長男、史実では忠政)→伊勢桑名城、旧領は次男忠朝が継承(史実における忠勝への関ヶ原の恩賞)
大久保忠隣→相模小田原城(史実では北条滅亡時に秀吉の指名で父忠世が入府)
本多正純→下野宇都宮城(史実では釣り天井事件で改易)
酒井家次(徳川四天王忠次の長男)→出羽庄内(最上義親領)を与え直臣化(史実では息子忠勝の代に入府)
最上義親(最上義光次男、史実では家康の偏諱を受けて家親)→近江大森(最上騒動後の封地)
大須賀忠次(徳川四天王榊原康政の長男、史実では忠政)→陸奥白河(史実では榊原家を継いだ息子忠次の移封地)
石田三成→豊前・豊後・筑後・日向
高橋元種(秋月種実の次男)→日向縣城代(史実では九州国分で入府)
志賀親次(大友旧臣)→豊後岡城代(旧領復帰)
北条氏盛(氏規の子で氏直の養子、史実では文禄の役で陣没)→伯耆(氏直に与えられる予定だったとされる)
増田盛次(増田長盛嫡子)→大和半石・郡山城(父長盛が得た所領、大坂の陣で豊臣方で討死)
豊臣秀高(丹羽長秀の子、大和大納言)秀長の養子→紀州和歌山城(所領を半減、家老に補填加増)
桑山重晴(秀長・秀高家老)→大和半国・新庄城(関ヶ原後の居城、石高は十倍の二十万石)
藤堂高虎(秀長・秀高家老)→伊予今治城(石高は関ヶ原後の二十万石)