テーマ1 切支丹と時代小説

 よりによって面倒なテーマを選んでしまった気もしますが。「時代小説の鬼門」とされる切支丹と明治山田風太郎のメインテーマの一つですから、山風マニアとしては語りやすいかなと。

序論にして総論

 きっかけは、古本のネット販売網で「日本切支丹宗門史」を安く(いやあんまり安く無いかな、適価と言い直しましょう)手に入れた辺りでしょうか。切支丹関係の史書は読んでいると色々と発見があって面白いです。先に、ルイス・フロイスの「日本史」を通読しましたが、これは彼が活躍した戦国期がメインで、江戸時代の記述がない。彼の生没年を考えれば当たり前ですが。「日本切支丹宗門史」は作中にも引用があって結構期待して居たのですが。これは家康から家光までの三代を書いたものでした。作者は日本の宗門史を全部網羅する著作を準備していたらしいのですが、残っているのはこの時代のみだと解説には有りました。

 切支丹系の史書は人物評価基準が明確です。つまり宗門に好意的か否かです。だから信長の評価は高く、と言っても晩年の自己神格化には否定的で本能寺は天罰という見方をしています。信長を討った光秀の評価は曖昧ですが、娘ガラシアお玉が信徒であったため、割と得をしています。禁教令を発した秀吉にはかなり否定的と言うか、悪魔の頭目的な謂われ方をしています。その秀吉の遺児秀頼から政権を奪った家康は、初期には信仰を黙認した事もあってやや好意的。秀忠、家光になると弾圧の総元締めとしてもう貶し放題でしたね。意外だったのが、島原の乱の描き方で、信徒による暴発でなく、領主による暴政への農民叛乱であるという正しい認識を述べ、禁教はこれを拡大解釈した物だと断じています。一寸面白かったのが福島正則の改易理由。領内の切支丹布教に好意的だったからと言うのですが、はて。まあ幕府の方針転換への対応に失敗した面はあるでしょうけど。

切支丹文学

 で代表的な切支丹小説として、芥川龍之介と遠藤周作(「奉教人の死」・「沈黙」共に新潮文庫)を読んでみました。

 芥川は、賞のイメージから純文学という括りにあったので何となく敬遠していたのですが、読んでみるといまさらですが面白いじゃないですか。信仰と日本人の心性との矛盾を描いている点で、山田風太郎と通じる面も有りますが、あそこまで意地悪くない。まあ、この分野の先駆者としては余り極端に書けなかったのかも知れませんが。

 この中の一遍「おぎん」について少々。両親と死に別れ、切支丹の養父母に育てられた少女が、捉えられたとき、生んでくれた両親と同じ所(つまり地獄)に行くために転教。養母の方は天国へ行くためでなく夫の共をするために殉教すると宣言。それを聞いた夫も転教を決意します。結局親子三人は釈放され、悪魔はこれを成功として喜ぶのですが、作者はこれに否定的な見解を述べて終わります。

 切支丹の信仰は日本の風土に合わないと言うのが芥川の結論なのですが、自身が切支丹である遠藤周作の方はどうか。「沈黙」には山風作品で馴染みのあの人が登場します。日本名沢野忠庵ことクリストファ・フェレイラ神父です。昔教科書で一部分を読んだだけなので勘違いしていましたがこの中では忠庵は既に転んだ者として登場し、後から来た伴天連を転ばせる側に位置します。

 此処での忠庵、ひいては主人公の伴天連の転教の理由として題名になっている神の「沈黙」が挙げられますが、私のような不信心者にはこれが理解出来ない。山風作品(外道忍法帖)での、SM的な転教理由の方が何となく説得力を感じてしまうのですね。大体、キリスト教というのは現世利益を追求する物でなく、死後の永遠の命を約束する教えです。よって生きている時は不幸なほどいい訳で、その辺がSMチックなのですけど、それ故に権力と結びついて庇護されると途端に保守的に成る。その辺がどうしても好きになれない。

 私は彼らの言う異教徒(ぜんちょ)ですが、全能なる神の存在は信じます。しかし神が真に全能なら、自分を信仰するか否かなんて拘らないはずだと思います。原始キリスト教の考え方は、キリストが十字架に掛かった時に全ての現在を背負ってくれた訳で、本人の信仰なんかもう関係ない筈です。だから布教というのはこの事実を世に知らしめる為の行動でした。それが協会制度が整っていく過程でこれを維持するために様々な欺瞞が生まれる。

 キリスト教と日本風土の話に絞りますけど、芥川は「つくりかえるちから」によってキリスト教も日本的に同化されてしまったと多分肯定的に述べ、遠藤は「沼地」に嵌って根が腐ってしまったとやや否定的な表現ですが、共に風土と合わないと言う結論では一致しているようです。山風作品ではもっと引いた視点から、キリスト教の、ひいては宗教の持つ自己矛盾に着目しているように思えます。「外道忍法帖」で神の愛の果てに原爆投下を持ってくるように。あれを天罰としてしまうのはやや行き過ぎにも思えますが、アメリカという国がキリスト教の善悪両面を体現している国であると言う点は指摘しておきましょう。

時代劇RPGと切支丹

 さて、やや話が固めになってしまったので、本題に入ります。

 時代劇を主題としたRPGはいくつか有りますが、今手元にあって参照出来るのは「戦国霊異伝」と「天羅万象・零」の二つです。どちらも主たる舞台は戦国で(天羅の方は架空の、スケールアップされた戦国ですが)どちらも切支丹的な要素は有りません。これだと話は終わってしまいますが、RPGの世界でも切支丹は鬼門なのでしょう。

 無いとなれば作るしか無い訳で、取り敢えず試案のみ。

 切支丹は日本史の中で何度か混入された異物の一つです。戦国期にはそれを咀嚼しようと言う動きがありました。統一が成った後、これを排除する方向へ向かいましたが、日本文化への切支丹的要素の取り込みは成功したのでしょうか、それとも長い安定の中で排出されてしまったのでしょうか。単純に答えは出ませんが、日本的文化と見られている茶道に切支丹信仰との関連性を指摘する意見も有ります。学者ならその辺を検証して纏める所でしょうけど、RPGを作る上では、らしさを演出するのが最重要ですので、勿論肯定的に扱います。

 シナリオの面から行くと、隠れ切支丹の村へ紛れ込んでしまったキャラクター達がどう対処するかと言うのは面白そうです。多分、「眠狂四郎」シリーズなんかは参考になるでしょう。

結論

 は有りません。これは現在進行形の企画ですから。以上の文章も予告無しに修正されることがありますが、その辺には余り拘らないでくださいね。

題材

戻る