バルカン諸国の復興

 

§0 バルカンの火薬庫

 イスラムのオスマン帝国とカトリックの神聖ローマ帝国の狭間にあって、双方の勢力伸張の帰趨によって翻弄されたバルカンの諸民族。この地方は結果として様々な民族宗教が入り乱れるモザイク状態になってしまった。皮肉なことだが、その原因はオスマン帝国の宗教的寛容にあった。

 オスマン帝国の異教徒統治は教会コミュニティを介した間接支配であった。故に異教徒(この場合は正教徒や新教徒、あるいはユダヤ人)は帝国領土内を自由に移動でき、異教徒同士が混在して居住していた。この線の支配は近代に起こった面の支配と相容れないもので、これがバルカン特にユーゴスラビアの悲惨な内戦をもたらした。

§1 大ハンガリーの画定

 1593年から1606年に掛けてハプスブルク家とオスマン帝国によって戦われた”長い戦争”、史実では痛み分けに終わった戦争であるが、カトリックに帰正したドイツ諸侯の参陣によりオスマン領ハンガリーの奪還に成功する。

 聖イシュトヴァーン王冠領(ハンガリー王冠領)とされたのは現在のハンガリーだけではなく、北部ハンガリー(スロバキア)・クロアチア・トランシルヴァニアを含む。オスマン帝国との講和によりハプスブルク家はハンガリー王位を手放すがその全土はイエズス会の手によってカトリック化される。

 第一段階として王領ハンガリーにカトリック改宗令が出される。改宗を拒んだ住民が移住して減少した人口をドイツからの移民が埋める。その結果、ドイツ人比率の高くなった北部ハンガリーはオスマン領ハンガリーの奪回後に分割して、西半分をモラヴィア大公領に編入してハプスブルク家の直轄領に組み入れる。ボヘミア反乱が史実より小規模で、スラブ系貴族が温存されたボヘミアに対し、モラヴィアはドイツ人比率が高くなる。近代にはチェコとスロバキアではなく、ボヘミアとモラヴィアと言う形になるだろう。

 ハンガリーと同君連合となっていたクロアチア王位はハプスブルク家に委譲。新たにクロアチア王と成った皇帝フェルディナントは自身が保持していた内オーストリアとケルンテンの二公国(をクロアチア王冠領に組み入れて帝国クライスから外す。クロアチア東部のスラヴォニアはハンガリー王冠領、そしてアドリア海沿岸のイストリアとダルマチアそしてヘルツェゴヴィナはヴェネツィア共和国領となる。英蘭が海洋国家として勃興しないのでヴェネツィアは依然として侮りがたい経済力を維持している。

 トランシルヴァニアは古代にはダキア(=ルーマニア)の一部であったが聖イシュトヴァーンによってハンガリー王国の一部とされた。オスマン帝国の侵攻によって三分された東ハンガリーの地にオスマン帝国の従属国としてトランシルヴァニア公国が置かれた。ハンガリー王国がその領地を奪還した暁には、ハンガリー全土のカトリック化を条件にハンガリー王位はハプスブルク家からトランシルヴァニア公に譲られる。その代わり、スロヴェニアはハンガリー王冠領から外れてハプスブルク家の世襲領とされる。

 セルビアに属するヴォイヴォディナもハンガリー王冠領として回復。イエズス会によるカトリック化活動によりセルビア人が大量に流出する。その一部は宗教的に寛容なヴェネツィア領に流れるが、彼らの多くは漕ぎ手として戦場に駆り出されることとなる。

§2 ルーマニア建国

 かつてのダキアの地にワラキアおよびモルダヴィア公としてオスマンに従属した半独立公国として存在。再興したハンガリー王国とポーランドの後押しで統合される。

 カトリック化の圧力を受けてトランシルヴァニアにいたルーマニア人正教徒は隣国ワラキアへ移住する。これにより国力を増したワラキアはミハイ勇敢公の元でオスマン帝国軍を退け、更にスチャヴァを占領してモルダヴィア公を兼ねる。(史実では同時期にトランシルヴァニア公も兼ねており、一時的にルーマニア三公国を統一したことになる)

 但しミハイ勇敢王に追われたイェレミア・モヴィリャはポーランドの大法官ヤン・ザモイスキの後押しでモルダヴィア公に就いた経緯があり、ミハイ公はポーランド軍の干渉を退けなければ成らない。干渉軍を率いるヤン・ザモイスキを戦死させようかとも思ったが、イェレミアの戦死により撤退と言う事にする。

 ミハイ公はルーマニア王を称し、同時にルーマニア正教会を創設してコンスタンディヌーポリ総主教庁からの独立を図る。当然ながら総主教庁からの許可は下りず、カトリックとの合同に傾く。ルーマニア東方典礼教会ではそれまでの教会スラブ語に代わってルーマニア語が用いられる。これはルーマニアの統一に大きく寄与するだろう。

 ヤン・ザモイスキの死後、ポーランド王を譲渡されたマキシミリアノ王はルーマニアとの同盟に転じてオスマン帝国と戦い、ドブルジャ地方をルーマニアに獲得させる。これによりルーマニアは海への出口を獲得し、同時にポーランドとオスマン帝国との緩衝地帯となる。

 ルーマニア東方典礼教会の成立により、イエズス会はルーマニア王国での布教が禁じられた。なお史実におけるルーマニア東方典礼教会(あるいは帰一教会)はカトリック化されたハンガリー王国内のトランシルヴァニアに設けられている。 

§3 セルビア分断

 ハンガリー王国の再統合、ルーマニア王国の建国によりオスマン帝国支配化にあるバルカンのキリスト教諸民族は動揺する。中でも三方をハンガリー・ルーマニア・ヴェネツイア=ダルマチア共和国に囲まれたセルビアは「イスタンブールかローマか」で侃侃諤諤の議論が繰り広げられる。

 オスマン帝国の支配下では信仰の自由はあるが政治的独立がない。対してカトリック諸国の後押しで独立を勝ち取ってもカトリック教会への帰参が強制される。

 状況が動いたのはオスマン帝国によるクレタ島の攻撃。史実ではヴェネツィア共和国が単独で抗戦におよび最終的には奪われるのだが、キリスト教国の守護者を自認する皇帝が支援に動く。(史実では三十年戦争の終盤で動けなかったと言うこともある)

 と言っても帝国には海軍は無いので間接支援である。クレタ島への攻撃を講和の破棄と断じた帝国軍がボスニア侵攻を開始する。ムスリムのボスニア人は改宗か追放かの二択を迫られて大多数が改宗を選択、ハンガリーより遁れてきたプロテスタント系住民は二代目となり更なる移住を嫌って改宗、元からいたセルビア系正教徒は移住を選択する。サラエヴォには新たなカトリック司教座が置かれる。

 帝国軍の南下を受けて迅速な反応を見せたのがモンテネグロ。ツェティニェの主教公が支配する神政国家であったモンテネグロはヴェネツィアと結んで世俗化を図る。(史実からちょうど二百年前)

 ツルナ・ゴーラ公(モンテネグロはヴェネツィア語で、どちらも”黒い山”の意味)は宗教的権威を求めてコソボのペーチ総主教を囲い込む。総主教の名でセルビア人の蜂起を呼びかけるが、背後にカトリック勢力の陰謀を感じ取ったセルビア人正教徒は動かない。(背後にいるヴェネツィアは宗教には寛容と言うか無関心だったのだが)

 ボスニアはハプスブルク家の統治するクロアチア王国領となり、サンジャク・コソヴォはツルナ・ゴーラ公領となる。ツルナ・ゴーラは名目上はカトリックのスコピエ司教区とされたが、正教のモンテネグロ人もムスリムのアルバニア人も共存した。

 ベオグラードはカトリック連合軍による包囲戦に耐え、セルビア人はオスマン帝国の宗主下での自治を勝ち取る。

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