ヴァーサ朝の興亡 

 ポーランドを中心とした東欧・北欧の歴史。

§1 シギスムント王

 スウェーデン・ヴァーサ朝に生まれながらポーランドに送り込まれてがちがちのカトリック王となったシギスムント。カトリック優位のこの世界では彼の野望は実現するだろう。

 史実では、スウェーデン王であった父ヨハンの死後、シギスムントはスウェーデン王位を叔父カールと争い敗れる。しかしカトリック勢力(具体的にはハプスブルク家が獲得したプロイセン公国)の後押しによりこの結果を逆転させる。

 (ポーランド・スウェーデン連合王国ではヴァーサ家が強大化しすぎなので)大宰相ヤン・ザモイスキの死去によりシギスムントはポーランド王位をハプスブルク家へ委譲する。正確にはプロイセン大公(史実におけるドイツ騎士団長)がポーランド王に選出されるという手続きを取る。

 選挙王制であるポーランドと異なり、世襲であるリトアニア大公位はシギスムント(いやスウェーデン王としてはジグムントと呼ばれる)がそのまま保持。よって新たにスウェーデン・リトアニア連合が成立する。

§2 クリスティアン2世

 ジグムントとは真逆にやられ役なのがデンマーク王クリスティアン。ジグムント王のもとカトリック国として生まれ変わった隣国スウェーデンに対し、北欧唯一(というかヨーロッパ唯一)のプロテスタント王国となったデンマークを統治する彼はカールの遺児グスタフ・アドルフの復位を名目に戦いを仕掛ける。

 グスタフ・アドルフは史実ではスウェーデン王として迎え撃つ側だったのだが、戦いは皇帝軍の加勢によりデンマークは史実とは逆に大敗。帝国に保持していた公国領を失陥する。これがデンマーク凋落の第一段階。

 但し、悪いことばかりではない。この段階では海軍力ではデンマークが遥かに上であり、海外領土は無傷のままであった。帝国諸侯としての地位を喪失することで逆に主従関係が無くなるというメリットもあった。これは逆にデンマークに海上帝国として生きる道を選ばせたと言える。

 更に、唯一のプロテスタント王国であるが故にカトリックに侵略された英蘭からの亡命者の逃げ込み先となる。カルマル戦争で大敗した後の活路を求めたクリスティアンは亡命商人たちの申請を受けて世界初の株式会社を誕生させる。史実ではフランスが英蘭に継ぐ三番手なのだが、これは先行した英蘭のまねをしたモノで独自に思いつくことは無いだろう。

 英蘭が没落した世界ではデンマークの役割は大きい。英蘭が北米に築いた植民地の全てとは言わないまでも、いくつかはデンマークの後押しで作られる可能性が高い。史実より強大化する海上帝国に制止を掛けるのがフランスである。

 フランス宰相に成ったリシュリューは(史実における対ハプスブルク包囲網に代わり)プロテスタント最後の砦となったデンマーク包囲網を提唱する。その本音はデンマークが築いた海上帝国を奪うことにある。この丁仏の抗争は史実における英蘭戦争に相当する。

§3 ロシア動乱

 眼を東方に転じる。

 史実では動乱時代の果てにロマノフ朝が成立するロシアであるが、ロシアもカトリック化(厳密にはウクライナと同じ東方典礼教会)するためにヴァシーリー・シュイスキーの政権をスウェーデン王と成ったジグムントの後押しで存続させる。史実では暗殺された彼の甥ミハイル・スコピンの即位を持ってシェイスキー朝の成立とする。

 偽ドミトリーについてはポーランド貴族の後押しがあるが、新王となったマクシミリアンが国内を固めることに集中したためポーランドとロシアの全面衝突には至らなかった。史実におけるゼブジドフスキの反乱も新王に対する反乱として発生し、王権の強化に向かう。

 リトアニアとの合同によりロシアとの国境問題を抱えることに成ったスウェーデン。リトアニア領と成ったスモレンスク、フィンランド領と成った東カレリアを巡ってロシアの巻き返しを迎え撃つことになる。

§4 デンマーク包囲網

 デンマーク凋落の第二段階は対スウェーデン戦争。但し時期的には史実におけるデンマーク・ニーダーザクセン戦争に相当する。リシュリューの主導による対デンマーク神聖同盟成立に対抗するために、クリスティアン王は数少ない味方だであるスイス傭兵を招聘する。更にオスマン帝国との同盟を結び、当面は抵抗できるだろう。

 皇帝軍の主力はバルカン方面に展開しているのでスウェーデンとの一騎打ち、しかしスイス連邦がフランスによって解体されるとスイス傭兵が戦線を離脱して戦局は悪化する。27年にはスカンジナビア半島南端のスコーネ地方とノルウェーの首都オスロを占領されデンマークは講和を選択する。

 講和の条件は占領地スコーネの割譲とノルウェー王位の譲渡。失意のクリスティアン4世はデンマーク王位を長男クリスティアン(史実では父より先に死んだので即位せず)への譲位する。代償として次男フレデリクはフェルデン司教に任じられる。(史実でも就任したがカトリックの司教なので結婚は出来ない)

 幸いにもデンマークは海軍力ではまだ勝っているのでゴットランド島はそのまま保持できた。ジグムント王は史実のグスタフ・アドルフのようなゴート起源説(これが三十年戦争におけるスウェーデンの介入理由の一つであった)を取らなかったのでゴート族に由来するゴットランド島には執着しなかったと思われる。

 デンマークは帰正に際し独自の聖クヌート修道会(デンマークの守護聖人)を教皇庁に認めさせ、緩やかなカトリック化を行う。

§5 ヴラディスラヴ1世

 ジグムント王の死去により長男ヴラディスラヴがスウェーデン王位を継承するとロシアが失地回復に乗り出す。史実におけるスモレンスク戦争であるが、ロシアを迎え撃つのはポーランドではなくスウェーデンになる。しかし史実と異なりスウェーデンとポーランドの関係は良好なので、途中からポーランドが参戦し、またオスマン帝国の干渉も無いのでロシア側が圧倒的に不利に成る。結局ロシアは動乱期に確保していた東カレリアも失陥する。

 フィンランド正教会はロシア典礼教会から分離されて改めてカトリックとの合同を果たす。

§6 ヴァーサ朝の再統合

 史実ではポーランドヴァーサ朝はシギスムントの四男ヤン2世カジミェシュで断絶する。ヤン2世の登壇はポーランド崩壊の序曲と成ったフメリニツキーの乱とともに始まっており、まさに終わりの始まりと言える。ここで考えられる対策としてヴァーサ朝の統合がある。すなわち、ホルシュタイン公に納まったグスタフ・アドルフの娘クリスティーナ(史実ではヴァーサ朝最後のスウェーデン女王)をヤン・カジミェシュと結婚させる。

 史実のクリスティーナ女王は王位を捨ててカトリックに改宗したが、スウェーデンがカトリック国家になっているので退位は必要ないだろう。従弟のカール10世の出る幕も無い。(カール10世の母カタリーナの結婚が15年なので、彼はスウェーデンとは全く無縁に育つことになる)

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