第零次日清戦争

 豊臣公儀の日本対勃興期の清。

§0 日本統治下の明帝国

 日本軍は明の宮廷には殆ど干渉しなかった。その数少ない例外が宦官と科挙の廃止である。宦官によって管理されていた明の後宮は(日本の大奥の如く)女だけの国となり、宦官が長を勤める特務機関「東廠」も解体される。その下部組織であった禁衛軍「錦衣衛」も日本から送り込まれた忍者たちの再就職場所となっていく。甲賀と縁の深かった六角義治が象徴的にその長に据えられる。実行部隊は甲賀二十一家であった山中長俊と甲賀水口城主中村一氏(彼も二十一家の一つ瀧家の出と言われる)

 科挙廃止の目的は崇文侮武の風潮を変えること。特に侮武の風潮がある限り侵略者である日本が真に受け入れられる可能性は低い。しかし武が強くなりすぎるのも問題で、目指すところは文武両道。史実において武人として活躍しながら不遇であった明人は活躍の場を得て、逆に武の才能が無く軍を率いて非業の死を遂げた者たちも浮かばれる。

 史実ではサルフの敗戦後に起用された熊廷弼。真っ先に見出され、ヌルハチ包囲網の構築に寄与する。史実のような讒言による失脚も無い。次に今公明といわれた袁崇煥。寧遠城でヌルハチを敗死に追い込んだ名将も、史実で科挙に合格して進士となったのは奇しくもサルフの戦いの年。元々軍事に興味が有ったらしいので、南で登用されて北へ回された可能性もあるだろう。袁はゲリラ部隊の毛文竜を職務怠慢で殺してしまうのだが、これが逆に彼の命を縮めてしまう。

§1 ヌルハチ

 遼東総兵李成梁は、ヌルハチを後押しして女真の中で一大勢力とし、これによって女真を統制しようと目論んだ。しかし肝心の李成梁は弾劾を受けて失職。明の制御下を離れたヌルハチは明が秀吉の唐入りで忙殺されている隙に更なる拡大を見せていた。

 史実では弱体した明がヌルハチの勢いを止められず亡国に突き進んだのであるが、神宗による浪費が無く、また武に長けた日本軍がこれに対応するために単純な明清交代は起こらない。ヌルハチに対抗するために豊臣二代目秀次が送り込んだのが伊達政宗。これは自身の再渡海を忌避した家康の推薦もあった。初めに政宗を補佐するのは既に大陸にいた黒田如水。如水の死後は真田昌幸がこれに代わる。そして最終決戦で政宗を支えるのは真田幸村となる。

 如水の結論は「ヌルハチさえ除ければ満洲軍は瓦解する」であった。だがこれが容易ではない。もはや暗殺は難しく戦場で討ち取るしかないが、騎馬を主体とする満洲軍は戦って退けるそれほど難しくないが、大将を討ち取ると成ると至難である。

 敵に城を囲ませて支援軍とで挟撃を掛ける、いわゆる後詰決戦を仕掛ける。そのために攻撃を受けた城は落ちそうで落ちない状況を演出する。更に支援にやってきた朝鮮軍に偽装投降をさせて敵を油断させる。

 巧妙な罠に掛かって戦場に散ったヌルハチ。しかし、満洲軍は新たな後継者を得て再起する事となる。

§2 光宗泰昌帝

 暗愚の神宗万暦帝の不幸な長子。廃嫡の危機を超えて即位したと思ったら一ヶ月で崩御。おそらくは毒殺と思われる。秀吉の唐入りによって父が処刑され、半ば傀儡として即位させられた。それでも、日本軍がヌルハチを討って満洲軍を退けた事跡は彼の功績として歴史に残るだろう。

§3 ホンタイジ

 父ヌルハチの史実よりも早い死によって後継ぎとなる。母がイェヘナラ氏の出身であったことからむしろ満洲と扈倫の合同を企図して選ばれた。結果として史実よりも早く、ヌルハチがサルフの戦いで勝った時点での継承が発生した形になる。

 但しヌルハチが掲げた大義名分「七大恨」はもはや有名無実であり、更に明軍(実際には日明連合軍であるが)は健在であるから、史実のような勢いに乗った遼東の制圧と言うわけには行かない。まずは東方に割拠する野人女直の併合、次にモンゴル族ホルチン部との縁組。そして矛先は鴨緑江の対岸、すなわち朝鮮王国へと向かう。

§4 仁祖反正

 日本軍の干渉を受けて即位した秀祖(光海君、秀吉の”秀”を王号として名乗る)は決して暴君ではなかった。父王宣祖が史実より早くに亡くなった為に、嫡出の王子が誕生せず、故に史実のような永昌大君を担いだ宮廷クーデターも無く、弟を”蒸殺”したという汚名も帯びない。むしろ自身が庶子である立場から嫡出と庶出の間の差別を無くそうという政策を打ち出していた。

 しかしこの政策が一部の儒教”原理主義者”たちを刺激した。明が日本の占領軍の圧力で科挙を廃止していたこともあって「朝鮮こそが真の中華なり」と言う機運が醸成されつつあった。彼らは秀祖の弟定遠君の長子綾陽君を旗印として宮廷クーデターを企てる。史実においても発生した仁祖反正である。

 クーデターを起こした西人派は日本軍に対抗すべく、金国の支援を軍事要請した。これに対して日本側も忠清道・慶尚道の駐留部隊が動き出し、やがて本国からの増援が訪れて秀祖の復位を支援する。関白秀次は徳川秀忠の弟で伊達政宗の娘婿徳川家次(史実では松平忠輝)を三代目の征夷大将軍に任じて派遣軍の総大将とした。(秀忠夫人は史実の浅井氏では無いので家光は生まれない。秀頼も生まれていないし、その妻である千姫も然り)

§5 リンダン・ハーン

 金国が弱体化すると、相対的に強化されるのがモンゴル部族。そのモンゴルの再統一に乗り出したのが、チャハル・トゥメンの当主リンダン・フトゥクト・ハーン。ホルチン部は史実ではその強権を嫌ってヌルハチに接近して姻戚関係を結ぶ(史実ではこの婚姻から後の順治帝も生まれている)のだが、この展開では帰順も已む無しである。

 山西の旱魃をきっかけに発生した農民反乱に手を焼いている間に、モンゴル部族の再統合は進む。そして、運命が入れ替わったようにスレ・ハンが1634年に病死する。逆にリンダン・ハーンには(スレ・ハンが急死する)1643年までの余命を与える。

 リンダン・ハーンの死の直前の目的はチベット征服であった。リンダン・ハーンはチベット仏教のカルマ派の、彼の死後チベットの統一を果たしたグーシ・ハーン(トゥルバイフ)はこれと対立するゲルク派の信者であった。つまり史実においてリンダン・ハーンの病没は、北元から大清帝国への交代のみならず、チベットにおけるゲルク派の勝利に繋がった。

 リンダン・ハーンによるチベット征服が成り、カルマ派の優位が確立。しかしトゥルバイフの娘を娶ったジュンガルのバートル・ホンタイジ息子が後のガルダン・ハーンとなる。がこれはまた稿を改めて。

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